アラカルト

「学校研究の動画サイト」とこれまで研究に関することや教育に関することについて,思いついたことを書いています。
「学校研究」の動画サイト
AIモデルより得られた知見から、学校研究についての目的・方法・評価(検証)を提案するとともに、その根拠をAIモデルから解説しています。
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研究や教育に関するアラカルト
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教科の学習で育成していること

教科の学習における特徴量
 人間は日常生活のさまざまな情報について、すでに AI で言えば特徴量の検出を行っています。自然事象は世界共通であるため、典型的な特徴量の検出は素朴概念として世界的に明らかにされており、科学的な解釈とは異なるものが多くあります。素朴概念の典型的な例としては、「運動方向に力が働いている」といったものが挙げられます。理科の学習では、科学的な特徴量を形成するための学習が行われていますが、素朴概念の変容も考慮しながら、特徴量が形成されやすい自然事象を提示することになります。そのため、複雑な事象の単純な部分を抽出したものや、特殊な状況下での事象など、日常生活にはなじみのないものを対象とすることも多くあります。例えば、薬品棚にしかないような物質を使って実験をすることがあります。日常生活における事象のままでは、情報が多面的になり、特徴量の検出が難しくなるからです。
 人間の認識や思考には論理的側面があります。論理的思考も特徴量の一つとして考えると、その特徴を説明しやすくなります。入ってくる情報を処理する際には、いくつかの特徴量が検出されると考えられます。その特徴量は、それぞれ考慮される重みが情報によって異なったり、各特徴量から導かれる結果が異なったりする場合もあります。論理もその一つと考えると、それぞれの結果を例えば多数決や平均的に処理して結論を出すと考えられます。したがって、入ってくる情報によって特徴量の検出も異なり、論理的処理もその一つであるため、結果的に論理が大きく反映されたりされなかったりします。このことから、論理的処理が状況に大きく依存することを説明できます。よく用いられる特徴量は、その重みづけが大きくなると言えます。発達段階の指標として用いられる一般的な論理的思考というのは、さまざまな状況で用いられるようになり、重みづけが大きくなってきたものと考えられます。したがって、よく用いられるということはあっても、どのような状況でもその論理がうまく使えるわけではありません。
 教科の学習においては、教科特有の特徴量の形成やその特徴量の使用といった限定が働くため、特徴量の形成や利用がある程度明確になってきます。必要な特徴量の重みが大きくなるとも言えます。したがって、その教科に関わる内容の処理や結果の出力がスムーズに行えるようになります。一方、日常生活や社会における諸問題の解決となると、ある教科の特徴量で処理できるものではなく、さまざまな特徴量が必要になり、人によって用いる特徴量にも違いが生じると考えられます。例えば総合的な学習の問題解決においては、多様な特徴量が用いられるケースが多いと言えます。そのため、ある期待される特徴量を意図的に形成させるのは難しくなり、その形成の効率が悪くなることも考えられます。
何を育成しているのかの評価
 AIではディープラーニングによって多くの特徴量が検出され、それらを複合的に用いることで適切な処理が行われ、人間に役立てられています。しかし、なぜうまくいくのかの説明が困難なケースも多いと言えます。例えば、特徴量に関わる重みを試行錯誤しながら変化させることで、結果的にうまくいく場合もあります。また、多くの特徴量の結果を平均したり、多数決を取るなどの方法によってうまくいくこともあります。このようなことは、教育においても生じると考えられます。何を育てているのかがあまり明確でなくても、日常生活や社会的な課題に対して問題解決を行い、プレゼンやレポートなどで一定の結論を出すことができれば、それで良いと評価されることがあります。その結論に至るまでには、まったく根拠や理由がないわけではないと思いますが、そもそも育てようとしているものが何であり、それが本当に育っているのかを確認する必要があります。多くの特徴量の中から結論を導き出す方法を学んでいるのか、特定の特徴量だけに着目して結論を出すことを学んでいるのか、プレゼンの仕方を学んでいるのかなど、何を学ばせようとしているのかを明確にする必要があります。また、問題解決の内容がある教科の内容に関連しているからといって、その教科で用いる能力を使っているとは限らないことにも注意が必要です。さらに、総合的に問題解決を行うことで特定の教科の能力も育成できるのではないかという考えもあるかもしれませんが、そもそも複雑な要素が絡む問題の中で、ある教科の特徴量を形成することが簡単にできるとは考えにくいです。このようなことから、教育的には結論が出たからといって「よし」と評価するのではなく、何を育成できたのかという評価の視点が重要です。

人間らしさ

人間は論理的であるか
 大学院時代は、人間の認識や思考の本質は論理であると考え、人間の論理的思考や論理的手続きに焦点を当てて研究していました。当時は第5世代コンピュータの開発が進められ、現代とは異なる人工知能のブームがありました。そのような情報も多く、その影響を受けたことは確かです。しかし、子どもの理科の問題解決における認識や思考を調べると、論理だけでは説明できないことが多くありました。そのため、研究自体も行き詰まりを感じていましたが、そのときにニューラルネットワークと出会いました。ニューラルネットワークによる処理は、論理とは全く異なり、イメージや直感に近いものでした。そこで、子どもが持つイメージに近いものとその処理を分析しました。特徴量の分析になります。これまでと異なる側面から子どもの認識や思考を示すことができました。しかし、論理との関わりや特徴量がどのように形成されるかについては、今後も検討が必要です。
 現代では機械学習におけるディープラーニングの発展により、ニューラルネットワークの構造や学習が発展し、より人間らしい判断やそれ以上の処理が可能となりました。さまざまな特徴量を検出し、それらが複合的に働いているためだと考えられます。人間に近づいているため、その仕組みを分析すれば人間の認識や思考が解明できるように思えます。しかし、システムが複雑化し、なぜうまくいくのかの説明がさらに困難になり、開発者でさえその詳細がわからないこともあると言われています。したがって、人間に近づいたモデルはできても、その処理の意味が解明できないため、人間の認識や思考を十分に解明することは難しいのです。
 以上のことから、私の研究においても人間らしさの解明はほとんど進んでいない状況です。わかったことは、論理とともに特徴量の検出を通して人間を捉えていく必要があるということです。論理と特徴量の関係について、最初は特徴量が存在し、それを上位の論理が束ねていくと考えていました。現在はそうではなく、具体的な状況下で人間は特徴量の検出によって認識や思考を行い、その経験が積み重なることで、類似した論理が集まり、一般的な論理が形成されるように思います。
人間とアンドロイド
 作成された人工知能が人間的であるかどうか調べる方法として「チューリングテスト」が提案されました。それは検証方法の一つですが、通常私たちは人間らしさをどのように捉えたり感じたりしているのでしょうか。物質との違いから考えると、そこに何か意思があるように感じるということではないかと思います。そして、意思があるということは、何らかの特徴量を検出しているのではないでしょうか。あるいは、何らかの特徴量を持っていると推測しているのではないでしょうか。そして、その特徴量に共感できれば、人間らしさを感じると考えられます。つまり、「そう感じているからこういうことをする」「そう捉えているからこのようにする」「このような理由でこうする」「このような理屈でこうする」といったことを感じているように思われます。共感できないような行動をとれば、人であってもいわゆる「人でなし」ということになります。人間であることは、論理的というか、ある程度の賢さは求められるでしょう。しかし、すべて論理のみであったりすると「ロボットみたい」と、人間らしさを認めてもらえないとも言えます。少し融通がきいたり、曖昧であったり、直感的であったり、感情的であったりすることも求められると思います。
 相手の特徴量を意識するということは、人がコミュニケーションを行うときに、それを意識しながら話していることが考えられます。相手が話すことを予測し、文法上の間違いや言い間違い、聞き取れなかったことも補って話を聞いていると考えられます。また、その特徴量には相手の感情や気持ちも含まれるため、それを推し量ることができると思います。ペットのイヌやネコに話しかけるのも、イヌやネコが持つ特徴量を推し量ったり、あるいは人間が勝手にそのようなものを作り上げて話しかけているのだと思います。コミュニケーションにおいては、このように特徴量を推し量ることになりますが、今後はアンドロイドのようなものが作られ、それに対しても特徴量を推し量るようになると思われます。
 アンドロイドと人間の関係について「イヴの時間」というアニメがあり、その関係について考えさせられるという点で面白いと思います。一定の特徴量があれば人間のように思えますし、人間であると錯覚するかもしれません。そこに共感すれば、人間と同じように扱うべきだといった感情も生まれます。アンドロイドが人間のように振る舞うのときには、人間の感情を持つのか、そこに人間性を見出してもよいのかということになります。このアニメで考えさせられる点ですが、ネタバレにならない程度で次のようなことが挙げられます。
アンドロイドに対して、
・人間性を見出すと、「共存しよう、大切にしよう」という考え方になる
・人間性はないと見なすと単なる便利なツールであり、ツールとして扱えばよいという考えになる
・人間とは違い愛情があるわけではない。だからアンドロイドが作るものは完全に安全とはいえない
・アンドロイドを人間とみなす者に対して、そこまでのめり込んでよいのかという危惧がある
・アンドロイドが技能的に人間にとって代わるとなると、例えば音楽の演奏など人間が演奏する意味がなくなるのではないかという危惧がある
 以上のようなことが挙げられます。人間らしさとは何かについて考えさせられると思います。人間が感情や意識を持つとはどういうことなのかということにも関わってきます。教育者にとっても重要な問題と思われます。

教育的示唆
 教育を特徴量の形成の視点から捉えると、次のような示唆が得られます。
・各教科の学習においては、各教科の見方・考え方の育成が求められています。この教科の見方・考え方は、その教科独自の特徴量の検出といえます。教育においては、その特徴量を検出できるようにすることが重要となります。
・その特徴量の検出をどれだけ行うかによって、実際に活用できるかどうかが決まります。したがって、その教科や他の教科においても、各教科の関連のもとに教科の見方・考え方を活用することが望ましいと考えられます。
・一般的な論理は、各教科において具体的な状況下で形成された特徴量の類似したものが、集合して形成されると考えられます。その形成にはある程度の期間が必要です。一般的な論理的思考が容易に形成されず、発達によるものだという考え方も生じます。
コミュニケーションについて、教育的には次のような示唆が得られます。
・人とのコミュニケーションにおいては、一般的に相手の特徴量を意識したり推し量ったりしており、外に表現された言語の意味だけにとどまらない理解をしています。
・言語だけでなく、声色や表情から特徴量を推し量り、どのように思ったり考えたりしているかを理解することができます。しかし、わからないほうが都合よい場合には、文字だけによるコミュニケーションが望ましいといえます。
・現代では、ネット上でのコミュニケーションが増え、昔に比べてコミュニケーションの量はかなり増加しています。そのため、かえって自分の特徴量を推し量れないようにしていることもあります。相手にとっても推し量るのが面倒になるため、絵や文字の情報のみで判断することが増えています。
・実際のコミュニケーションによる自分の特徴量の表出や、相手の特徴量の憶測は、人間らしさを求める上で必要となります。これからの時代には教育において、より考慮される必要があると考えられます。

作ることによる人間の解明(認識・思考・対話)

AIの視点からの人間の認識と思考の解明
 AI の作成や理論を通じて、人間の認識や思考がどのようなものであるかを研究する立場があります。科学が自然事象に対してモデルをもとに仮説を立てて検証することを考えると、これは科学的な方法と言えます。近年の AI は人間の認識や思考に近づいてきており、ある側面では人間を超えているとも言えます。人間に近づいているということは、人間の処理に近い部分もあると考えられます。ただし、あくまでも可能性であり、人間らしいからといって人間の処理と同じとは限りません。全く異なる方法で類似した処理を行うこともできるからです。
 現代の AI が人間に近づいた大きな要因の一つは、ディープラーニングによる特徴量の検出が可能になったことや、対話などにおいては大規模言語モデル( LLM )によって文脈の把握までできるようになったことが挙げられます。特徴量による処理は、情報をある観点から集約するものであり、情報のパターン化やカテゴリー化が行われます。情報がカテゴリー化され位置付けられると、これまでの処理でうまくいったものを用いて処理ができるようになります。そのため、なぜそうなるのかという根拠が必ずしも必要なくなることもあります。こうした特徴量は、教えなくても自動で生成することができ、機械学習では「教師なし学習」と呼ばれます。人間も情報をそのままデータとして記憶するのではなく、何らかの特徴量を検出してカテゴリー化し集約しています。そして、その特徴量が形成されると、その特徴量を捉える枠組みで情報を理解することになります。立体の環境にいる人間は、例えばサッカーのゴール近くにある立体的に見える広告が、平面に書かれているとわかっていても立体的に見えてしまいます。このように、特徴量を検出できることは、情報をある枠組みで捉えてしまうことにつながります。一方で、この枠組みがあるため、初めての情報であっても特徴量を検出して認識できるという柔軟性のある認識や思考が可能です。また、あいまいな情報であっても、特徴量から補って処理することもできます。このようなことから、あいまいな情報に労力をかけず、次の段階の処理やより高次の処理に労力をかけることができます。そして、全体として高度な処理ができるようになると言えます。このように人間が特徴量を検出することによって、認識や思考には次のような特徴や利点が生じると考えられます。
・情報を集約してパターン化できる。そのため、これまでの情報だけでなく新しい情報の処理や対応が容易となる。
・特徴量によって、より抽象化された言語や記号との結びつきが容易となり、論理的処理との関連付けが可能になると考えられる。
・多くの特徴量を検出でき、状況によって使われる特徴量が異なっていると考えられる。特徴量同士の関連付けによって、記号では関連付けにくいもの同士も関連付けができ、思考を飛躍させたり広げたりすることができる可能性がある。
・一方で、特徴量が検出されると、その枠組みから外れた認識や思考は難しくなる場合がある。
学校教育においては、特徴量の検出から次のようなことが考えられます。
・学校においては、教科などでその教科独自の特徴量の検出(教師あり学習)を行っている。
・学校教育においては、日常生活では形成されにくい特徴量の形成や、日常生活で形成されていた特徴量とは異なるものを形成するため、特徴量の形成が困難な場合がある。
・学習においては「転移」という現象が考えられる。この転移は、これまでの情報で用いていた特徴量の検出を他の情報に適用することが考えられる。したがって、転移は特徴量の検出が厳密であるよりも、ある程度の許容性があったほうが転移しやすいと考えられる。あるいは、どのような情報にも共通する汎用性の高い特徴量の検出は転移が生じやすいと考えられる。
・教育において明確な特徴量を形成することは望ましいが、あいまいさがないと汎用性が高まらない場合もある。機械学習における過学習に陥る可能性があり、少し異なればその特徴量では捉えられない、新しい発想が生まれないといったことが生じ、応用性を欠くことになる。
・教科の見方・考え方では明確な特徴量を形成させるが、総合的な学習やプロジェクト研究などでは知識の活用が求められ、明確な一つの特徴量よりも、さまざまな特徴量を全体として活用していることが多い。それぞれの特徴量を厳密に論理的につなげるだけでは問題解決ができないこともあると考えられる。
・特徴量は、教育において早期に形成したほうがよいのではないかという考えもある。幼児期から様々な教育を行うべきという考え方もあるが、早期に決まりきった特徴量の検出を行い、それから抜け出せず応用が利かないことも考えられる。新しいものを創造できなくなる可能性もあり、いわゆる過学習になる。社会変化が少ない場合は良いが、社会変動の激しい場合には有効でないことも考えられる。
特徴量と論理的思考
 特徴量の検出による処理は、情報のカテゴリー化やパターン化に優れています。一方で、人間の思考には論理的な側面もあり、特徴量の検出と論理的思考との関係が重要となります。この関係については、次のような点が指摘できると考えられます。
・情報の処理においては、特徴量が検出され、言語や記号などと結びつきラベル化されるといえる。特徴量の検出は容易であり、論理との結びつきの方が難しい。そのため、人間の場合、パターン処理は速い一方で、論理的処理には時間がかかるという特徴がある。
・多くの特徴量に対して、同じような論理的手続きを用いることで関連が生まれ、より一般的な論理が形成されると考えられる。したがって、論理的思考は一つの学習で直ちに形成されるものではなく、時間を要するといえる。
・特徴量が明確であるほどラベル化しやすいといえる。しかし、はっきりしすぎると、類似した特徴量との関連付けが弱まり独立しやすくなる。その結果、より汎用的な論理と結びつきにくくなる。汎用性のある論理を形成するためには、特徴量を検出しつつ、過学習にならないよう柔軟性が求められる。これらの調整がうまくいくかどうかが、適切な特徴量の形成につがると考えられる。
・教科の学習では明確な特徴量の形成が求められる。総合的な学習やプロジェクト研究などでは、教科ごとの明確な特徴量を組み合わせ、柔軟な特徴量の形成が求められるといえる。
対話について
 以上については、個人の認識や思考を対象としてきました。その個人が集まり対話を行う場合、特徴量の検出や論理的思考に影響が生じるといえます。対話というより対戦に近いですが、将棋などのシステムでは、対戦を通じてより強いシステムを構築することが行われています。対話によって、特徴量や論理的思考に次のような影響が考えられます。
・対話は言語が中心ですが、身振りや表情など言語以外の要素も関係する。これらも特徴量に影響を与える。
・対話は言語中心であるため、言語を通じて相手の特徴量に影響を与えると考えられる。言語による対話は教師あり学習のようにフィードバック情報となる。また、言語だけでなく図やイメージによる表現も特徴量に大きく影響を与えると考えられる。言語だけの対話よりも、図などの表現によるほうが特徴量を共有しやすい可能性がある。これらを通して、対話によって自分の特徴量が相手に影響を与えると考えられる。
・対話によって、相手と同じような特徴量が形成されることがあり、それによって相手の考えを理解しやすくなると考えられる。一方、特徴量にずれが生じることで、相手と異なった特徴量が形成されることもある。
・対話における論理は、特徴量と関連付けられなければ十分に理解されないと考えられる。
以上のように、対話について特徴量や論理の観点から考察すると、学習者のお互いの影響や理解について分析できるのではないかと考えられます。

新しい時代のカリキュラムのあり方(Society5.0への対応)

カリキュラム構成に影響する3つの軸
 カリキュラムの編成について、武村 (1985) は「文化的・社会的背景、教育観」の影響を挙げています。これをさらにカリキュラム構成に影響を与える軸あるいは要素として見ていくと、大きく「学問(文化)の伝承」「子どもの能力の育成」「社会的要求」の3つが挙げられると思います。まず「学問の伝承」、広くは「文化の伝承」については、次のように捉えられます。現在は歴史的に蓄積されてきた文化の上に成り立っており、文化が伝承されていかなければ未来の基盤がなくなってしまうといえます。その文化が役立つか、意義があるかどうかというのではなく、今まで築き上げてきた学問や文化を伝承するということが、教育の目的の一つとして挙げられます。学問や文化については、現在の価値観ではあまり必要性を感じないものでも、将来必要になってくることも考えられます。明治の学制発布の時代における教育では、この学問や文化の伝承を軸にしたものが多かったといえます。また、昭和 40 年代のカリキュラムにおいては、現代化運動の影響を受け、学問の影響が強いカリキュラムとして位置付けられるといえます。
 次に、「人間の能力」の育成に軸を置いたカリキュラム構成では、社会的な影響もあると考えられますが、人をどう捉えるかといった心理学や哲学にも関わってきます。したがって、人間とは何か、人間はどうあるべきかといった解釈によって、強調される能力には違いが生じるといえます。ゆとり教育が始まった昭和 50 年代からのカリキュラムにおいては、人間性回復といった視点からカリキュラムが考えられました。それまでの詰め込み教育から、人間として育成すべき能力の視点から検討されたカリキュラムといえます。
 次に、「社会的要求」を軸にしたカリキュラムの構成についてです。教育においては、現在あるいは未来を見据えた社会的に生じている問題への対処、問題を解決していく人材の育成が求められます。現代のカリキュラムは、社会が急変していく中で、社会人としてどのような人材を育成すべきかといった社会的要求の軸が大きく影響しているカリキュラムであるといえます。今後 Society5.0 に対応した教育が求められており、今後も社会的要求の軸は強く影響すると考えられます。過去において社会的要求の軸が強かったカリキュラムは、たとえば戦後すぐの昭和 20 年代のカリキュラムです。生活を維持していく社会的要求の軸が強いカリキュラムであり、生活単元のカリキュラムでした。
 以上の三つの軸は、複合して影響しているといえますが、時代によって重視される点が変わっているといえます。
※武村重和(1985)「新しい時代の人間形成と理科の教育課程」東洋館出版社
これからの社会に求められる教育
 Society5.0という大きな社会変化の中で、それに対応できる人材の育成が求められています。つまり、カリキュラムにおいて社会的要求が強く影響していくと考えられます。特に、知識・技能の習得だけでなく、情報の活用や解釈、知識・思考の応用、さらにコミュニケーション力や探究心、学習意欲など、態度の育成に関わる資質も重視されます。
 Society5.0は、AIによる大きな社会変革です。まず、AIの社会的ブームが起こった時代として、1980~1990年代を挙げることができます。この時代のAIは、大きな社会変革をもたらすほどのものではありませんでした。この時代のAIは、論理的な処理を中心としたルールベースのものでした。たとえて言えば、人が目や耳をふさいで外からの情報を遮断しても、頭の中では論理的に考えられるような、論理的処理を中心に問題を解決しようとするものでした。そのため、一般的なAIに対するイメージとはかけ離れていました。なぜなら、人間は論理的な処理だけでなく、視覚や聴覚による処理も大きな役割を果たしているからです。実際、論理的でない思考のほうが多いといえます。たとえば、見ただけでイヌをイヌと容易に認識できますが、なぜイヌとわかるのかは論理的に説明しにくいものです。
 一方で、現代のAIは、たとえて言えば人間、しかも専門家の目や耳の処理を得たといえます。つまり、論理的とはいえない処理も行えるようになりました。典型的なのは、多くの経験(ビッグデータ)を蓄積し、その特徴を抽出し、うまくいった経験を結果として出力できる点です。専門家が判断したデータや、日常生活の中で人間がごく当たり前に行っている処理をデータとして蓄積することで、人間の代わりに判断したり、補助したりできるようになりました。データによっては、専門家の目や耳を持って判断できるようになったともいえます。
 現代のAIでこのようなことが可能になった背景には、ビッグデータの蓄積と、それを処理できるハードウェアの発達、さらに特徴量抽出におけるディープラーニングの開発が挙げられます。一方、このような処理では、その答えがどのような論理や根拠によるものかを説明できないことが多いのも事実です。したがって、現代のAIは論理的な処理も含みますが、根拠が明確でない経験的な判断も含まれているということになります。そういう意味では、より人間らしいともいえます。
 近い将来、AIの発達によりAIが人間に取って代わり、仕事を奪われるのではないかと指摘されています。仕事そのものがなくなるわけではありませんが、仕事の内容は変化するといえます。では、どのような仕事が必要となり、どのような能力が求められるのでしょうか。
 AIといっても、答えや結果が正しいかどうかは人間が判断してデータを蓄積しておく必要があります。そのためのデータの蓄積には専門的に特化した能力が必要です。したがって、教育では個人の個性を伸ばし、特化した能力を育てることが求められます。また、その判断のためにしっかりした価値観や枠組みも必要となります。さらに、最終的な答えの良し悪しを判断する力や、全体を統合的に見る力も必要になります。結局は、専門的な目や耳が必要であり、新しいデータも求められます。すべてをAIに任せるという考えは極端であり、現時点でのデータ処理に満足し社会が停滞している場合はうまくいくかもしれませんが、社会は常に変化し、さまざまな影響を受けるため、その変化に対応した判断を人間が行う必要があります。AIが判断しても、その判断が本当に良いかどうかは人間が評価する必要があり、最終的には全てを任せることはできないといえます。
Sこれからの社会に対応するカリキュラムと教科の見方・考え方のカリキュラムの関係
 Society5.0 に対応するカリキュラムでは、具体的な課題解決の中で、プレゼンテーションなどの表現力や、協働で解決を行うためのコミュニケーション力、協調性といった態度がこれまで以上に重視されます。しかし、例えばプレゼンテーション力においても、相手にうまく伝える表現力だけが高まっても、伝える内容が深く分析されていなければ意味がありません。つまり、探究力や表現力だけが強調されたカリキュラムでは十分とはいえません。そこで、内容を深く分析するためには、教科の見方・考え方が必要になります。教科の見方・考え方は、教科の基盤となっている学問における見方・考え方に基づいたものといえます。したがって、この見方・考え方は、枠組みがあらかじめある程度決まっているため、トップダウン的なものです。
 しかし、トップダウン的な枠組みだけでは、Society5.0に対応した複雑な社会的課題は解決しにくくなります。明確な根拠や理由がはっきりしないものの、これまでにうまくいった経験やさまざまな要因が絡む複雑系の問題解決が求められます。したがって、そこでの考え方はボトムアップ的であり、AIのディープラーニングの手法に類似しています。つまり、教科の見方・考え方を重視したカリキュラムや授業だけでは、Society5.0に十分に対応できないことが考えられます。教科の見方・考え方を活かしつつ、Society5.0に対応した経験的かつ総合的なカリキュラムの構成も、今後のカリキュラム構成において求められるといえます。

話し合いで本当に深まっているのか

話し合いによって深まるのか
 「主体的・対話的で深い学び」ということで、授業では話し合いの場を多く設けるようになっています。話し合いをすることは良いことだと思いますが、形式的に話し合いをするから深まるわけではありません。その教科の見方・考え方で子どもが考えることで、深い学びができるといえます。そこで、話し合う前に自分で考え、その前にある程度自分の考えを持つことが必要になります。それを省いては深い学びは生まれません。自分の考えをある程度持てるようにするには、課題や問いの適切な設定が必要です。課題や問いは、子どもに合った難易度を考慮しがちですが、それよりも適切な文脈の設定が重要です。
子どもが考えをもつような文脈の設定
 話し合いをさせるために、様々な意見が出るように課題の文脈をあまり絞らないことがあります。そして話し合いの結果、いろいろな意見が出て勉強になったと評価する人もいます。しかし、その教科の見方・考え方で考えなければ、様々な意見が出たからといって深まっているわけではありません。
文脈が絞られないと考えにくい例として、私は日常生活の次のような例を挙げます。「今日の晩御飯は何がいい?」という質問です。この質問はすぐには答えられないことが多いです。すぐに答えられないのは、晩御飯の知識がないからではなく、文脈が広すぎて思考の手がかりがないからです。また、何か挙げたとしても、そこに深い根拠や理由があるわけではなく、ただ食べたいからということになると思います。つまり、特に深まった考えを持つことはありません。例えば、これで話し合いをしたとしても、自分の好きな食べ物をそれぞれ挙げるだけになります。
 一方、「田舎からたくさん送ってきたじゃがいもの芽が出てきそうなのだけど、晩御飯にジャガイモを使った料理で何か食べたいものある?」と聞かれると、「肉じゃが」や「ポテトサラダ」と考えやすくなります。また、炭水化物ばかりにならないようにという理由で、さらに料理を工夫したり他の一品を加えたりといった思考を展開しやすくなります。このように、ある文脈を設定すると、考えやすくなり思考が発展していく可能性があります。そして、例えば栄養バランスといった視点から話し合いをさせると、栄養についての様々な考えが出て思考が深まることになります。このように、課題解決を通してどのような能力を育成しているのか、どのような見方・考え方で課題を解決するのかを考慮する必要があります。
話し合いのあり方
 授業においては、じっくりと話し合うというより、お互いの知識や考えをうまく確認し合えるようにするのが先決です。日頃の授業では確認の場を多く設け、時間をかけてじっくり話し合うのことは必要に応じてで良いと思います。この確認においては、私の場合、立って隣や近くの人と話し、終われば座るといった短時間で行うことを推奨しています。最近授業を見ると話し合いに力を入れすぎて、自分で考察やまとめを書く時間がなくなり、教師が慌てて今日のまとめを書く場面が見られます。最終的に子ども自身が考察したりまとめたりすることができないというのは、何のために授業をしているのかわからなくなります。考察やまとめる力が育たず、話し合いという形式を守るために教育の目的を失っているように思います。何のための教育なのか、何を育てようとしているのか疑問を感じます。話し合いのための授業をしているだけで、どのような能力を育てようとしているのか見えてきません。最近のPISA調査で、再び読解力が低下し、自分の考えが書けていないといった問題が生じています。その原因の一つが話し合いに時間をとられすぎていることも考えられるのではないかと思います。その証拠があるわけではありませんが、このような現場の状況を見ると、低下する傾向に納得がいきます。
対話によって誤りからも考えを深めることができる
 対話の中で確認を重視するのは、どのような考えでも、たとえそれが間違った考えでも、間違いと確認できるだけでも勉強になるからです。それは、私が開発した自由記述評価システムを子どもに使ってもらっていた時に感じたことです。自由記述評価システムでは、マップ上で自分の解答と同じような解答が評価結果とともに近くに配置され、それを参考にして自分の解答を評価することができます。そのとき、自分の近くにある解答例と評価から自分が正当と判断できても、子どもは近くにある誤答をよく見ます。その誤答を見て「〇〇だから違うんだな」とか「〇〇についても書いていないからダメなんだ」といったように、たとえ正答していても誤答から多くのことを学ぶことがわかりました。もちろん自分が誤答の場合は正答から学びます。このことを通して、交流さえうまくいけば、正答であろうと誤答であろうとグループの中でも深い学びは成立することがわかりました。このことから、お互いに考えをしっかり聞く、またしっかり話すことが深い学びになることを実感しています。したがって、子どもには、相手のためにしっかり聞くこと、そしてしっかり話すことが必要であり、それが思いやりであることを指導する必要があると思います。これらができるようになれば、じっくりと話し合うことができるようになると考えています。
授業を評価する視点
 話し合いをすることが強調されているため、話し合いをすれば良い授業であると評価する人がいます。話し合いも含まれているような典型的に良いと思われる授業展開を想定し、その視点から自分の授業計画について見直すことは良いことだと思います。しかし、授業内容によっては、確認程度の交流で良かったり、教師が説明しなければならない授業もあると思います。要するに、その授業で子どもにどのような能力を育てようとしているのかが重要で、そのための課題や問題解決の方法、授業形態を考える必要があります。形式的に型にはまった授業展開を視点として授業の善し悪しを評価するのは不適切です。その授業で求めている教科の見方・考え方が何であり、その視点から子どもが深まっているかどうかを評価する力が教師には必要になります。授業形式だけをチェックして指導するのはある意味簡単です。しかし、授業を評価し改善する力が育つとは思いません。そのような視点でしか授業を評価しなくなると、良い授業はできませんし、他の教師にアドバイスできるような教師は育たなくなると思います。

専門性の枠にこだわらない

専門についてのタイプ分けや位置付けには課題がある
 学校研究で学校を訪問した際、どの教科の授業でも参観し、求められればコメントをしています。現在は音楽の学校教員などとも実践研究を行っています。「なぜ理科の先生が音楽にも関わっているのですか」と尋ねられることがありますが、「音楽をやっている人でも、草花を育てたり観察したりしている人もいますよね」と答えています。そもそもこのような質問をする観点自体に問題があると感じています。
 中学校では、他教科の授業について教師があまりコメントしない、あるいは自分にはできないと考える傾向が多く見られます。これは日本の教育文化が影響していると思います。日本では、理数が好きだから理科系、国語や英語・社会が得意だから文科系、または消去法で理数ができないので文科系、国語が苦手だから理科系など、すぐに型にはめて考えがちです。この枠組みで得意・不得意を決めつけ、本来持っている資質や伸びる可能性のある能力、必要となる能力を育てることを阻んでいるといえます。また、理科系だから〇〇はできなくてもよい、文科系だから〇〇はやっていないといった言い訳ができる環境を作っています。このように、「○○の専門家である」「○○の専門家は○○ができない、苦手である」といった文化を形成しています。そして、専門性を付与することで、関係のないことには口出しできない構造ができているといえます。
得意とする能力を伸ばすとともに、さまざまな能力を伸ばすことが必要である
 教育において、子どもにはまず「自分は○○について優れた能力がある」ことを自覚させ、それを伸ばしていくように考えればよいと思います。そして、その能力を伸ばし活かすためには、その能力だけでなく、他のさまざまな能力も活性化するとよいことを伝えていくことが大切です。得意なことや興味のあることについて、その能力を伸ばすことでアイデンティティの確立を目指してほしいと思います。一方、何でも一応にでき、さまざまなことに興味を示すが、すぐに飽きて特に何かができるわけではないというような没個性化は望ましくありません。図1aに示したように、何かしっかりできることがあり、それを中心に他の能力が基盤となって支えていることで、その能力がよりよく発揮できるようになります。図1bのように、しっかりできることはあるが、細く特化している場合は、不安定でその能力を十分に発揮できないこともあります。特化した能力は脳のある特定の部分を中心に活性化していると考えられますが、他の脳の部分も活用できれば、その能力をより発揮できるといえます。日本の型にはめた教育では、図1bのような人間を育成しているように思われます。
 脳科学の研究では、脳の活性化している部位を血流から明らかにするfMRIを用いた研究が行われています。たとえば将棋のプロが将棋を指すとき、さまざまな手を考えて最適なものを選んでおり、論理的に考えていると思われます。当然のことながら、fMRIで分析すると、論理的思考をつかさどると考えられる大脳皮質が活性化しています。しかし、プロでも上級になると、脳の中心部に位置する大脳基底核も使われていることが示されています(*田中)。これはアマチュア棋士にはほとんど見られません。大脳基底核は従来、運動や感情などに関わるとされてきました。つまり、上級のプロでは、当たり前に使う部分だけでなく、脳のさまざまな部分を使って考え判断していることになります。脳の働きから考えて、せっかく持っている機能はすべて活用したほうがよいに決まっています。中途半端にしか使っていないと、問題が解決できないこともあるでしょう。ただし、脳のさまざまな機能をバラバラに使うのではなく、統合して活用することが必要です。それを簡単にできる人は多くないかもしれませんが、その方向で努力したり教育したりすることも大切です。したがって、すぐに型にはめて、できること・できないことを決めつけて、脳の一部しか使わないのはよくありません。自分の得意とする能力を伸ばすとともに、それ以外の能力も活用することを考える必要があります。
(*田中啓治:「直観をつかさどる脳の神秘-将棋プロ棋士に見られる大脳基底核の特異な動き」RIKEN NEWS、No.358 April 2011)
その分野の専門家でなくても遠慮する必要はない、役立つ情報は提供できる
 その分野の専門家でなくても、その能力が全くないというわけではありません。何らかの専門性を持っていれば、その分野に特化した能力だけでなく、それに関連する能力も持っていると思います。したがって、自分の教科の専門でなくても、教育的なコメントは積極的にしたほうがよいと思います。また、専門にこだわって遠慮する必要がないもう一つの理由は、教育者は知識や思考、イメージ、理解といった言葉をよく使いますが、それらをしっかり定義して説明できる人がどれほどいるでしょうか。その点から考えると、ほとんど同じレベルの集まりのようにも思えます。脳科学、特に認知科学者は知識や思考がどのようなものかをよく考えています。また、AIの研究者の中には、「AIを作ることを通して知る」という研究をしている人もいます。そのような研究者のほうが、知識や思考、人間の感情、さらには人間に関する哲学を持っていることが多いといえます。一方、学校教育に関わる研究者は、この実践はどうだったか、何を使えばよいか、外国ではこう考えてこんなことをしているなどのコメントが多いように思います。そのような研究が決して悪いわけではありませんが、知識や思考といった人間の本質に迫る研究がもっとあってもよいと感じます。
 理科の先生だからといって、科学的思考がどのようなものかをしっかり説明できる人がどれほどいるでしょうか。また、科学的思考と論理的思考の違いを説明できる人はどれくらいいるでしょうか。国語の先生が、なぜ人間は言葉を話せるようになるのか、特に文法を意識せずに話せるのはなぜなのか、文章を理解するとはどういうことなのか、説明できるでしょうか。音楽で楽器を演奏できる技能はどのように身につくのか、どのような手順で学習するのがよいのかなど、根拠を持った説明ができるでしょうか。また、どの教科でもよいですが、理解するとは脳のどのような働きによるものなのか、どうすれば理解しやすくなるのかを説明できるでしょうか。
 子ども達には、授業で根拠や理由を求めることが多くなっていますが、教員自身もこのような教育に関わる根拠や理由を説明できるよう努力していく必要があると思います。根拠をきちんと説明できない情報に振り回されていないでしょうか。
能力育成の観点から、専門以外のさまざまな人からの情報も重要である
 教員はこれまでの経験から何らかの手応えを感じていることと思いますが、頑なに自分の教育方法を変えない教員もいます。また、自分たちが学んだ方法が正しい学び方であるという根拠のない自信を持っている人もいます。この単元はこのように学習すればよいというだけでは、育てるべき能力が明確ではありません。その方法が適切であるという根拠はどこにもありません。一方で、新しいもの好きで、〇〇法や〇〇ツールなどが紹介されるとすぐに飛びつく教員もいます。新しい教育機器が入ると効果も分からず何でも使えば良いと考える人もいます。教育的な目的や効果について、根拠を明確にして用いなければ意味がありません。
 現代のAIは、ある側面については人間の能力に等しいか、それを超えるものもあります。特に画像処理は最近著しく発展しています。しかし、画像処理を得意とするシステムが推論を要する処理もできるかというと、十分ではありません。このように、ある側面に特化したAIが発達してきており、これは「弱いAI」と呼ばれています。人間のように何でも総合的にできる、いわゆるネコ型ロボットのようなAIは「強いAI」と呼ばれていますが、強いAIはまだ作ることができません。残念ながら、いろいろな弱いAIを集めても強いAIを作ることはできません。たとえば、いくら飛行機の性能を上げても月までは飛べないのと同じです。弱いAIと強いAIは、それほど根本的に異なります。
 このように、能力全体を統合するものを作成するのは難しく、次元が全く異なると言えます。別の見方をすれば、強いAIのような能力は、簡単に分割して捉えることができません。そう考えると、人間の能力についても、教科ごとに特定の能力が育成され、それらがどのように統合されて総合的な能力となり、アイデンティティが形成されるのか説明するのは難しいといえます。少なくとも、特定の能力を育成している際でも、人間は全体の整合性を保つ形で矛盾なく能力を形成しているといえます。したがって、特定の能力だけに着目して他を不要とするのではなく、使えるものは積極的に活用するべきです。つまり、特化した能力を育成することは必要ですが、そのために理科系や文科系など教育者の都合で枠を作り、能力の育成を制限するやり方はふさわしくありません。
 統合された能力は簡単に分割できないため、いくつかの観点から能力の評価が行われたとしても、その評価を総合しただけでは全体的な能力が評価されたとは言えません。また、総合的な学習においては、さまざまな能力が育成されるだろうと考えがちですが、何でも無目的に探究させれば能力が伸びるわけではありません。やはり、計画的な総合的学習の中で、育成するいくつかの能力に着目しながら、探究的な活動を通じて全体の能力を活用させることが必要です。
 特化した能力を発揮しながらも、能力が統合化される必要があります。したがって、その教科の専門家だけでなく、さまざまな教科の専門家からのコメントや考え方が重要です。脳科学の立場から知識や思考、理解について研究している人は、教科の詳細な内容が分からなくても、その観点から能力育成についてコメントできます。たとえば、絶対音感どころか相対音感すらなく、チューナーがなければ楽器の音も合わせられない、楽譜の記号的意味は分かっても、楽譜通りにリズムが刻めない人がいるとします。そのため、直接音楽に関わる楽器や楽譜、歌唱については十分な指導ができないかもしれません。しかし、音楽を対象とした教育については脳の働きという観点からコメントできることもあり、コメントしても差し支えありません。私自身も、そのような立場で、さまざまな教科についてコメントを求められればコメントをしています。

昔のコンピュータ

大型コンピュータと8ビットコンピュータの時代
 始めて研究にコンピュータを用いたのは、大学院M1の時でした。いわゆる大型コンピュータと呼ばれるもので、大学には日立のHITAC(ハイタック)がありました。コンピュータ本体は、冷暖房完備のところで管理されており、見たことはありませんでしたが・・・。当時、研究室のプロジェクトで、約4000人の子どもとその親にアンケート調査をしており、それを分析していました。統計パッケージのSPSSを用いて基礎的な統計分析や因子分析を行っていました。SPSSを動かすためのプログラムを先輩がカードにパンチして、それを読み取り機に通すのを意味も分からずいわれるがままやっていました。大きなラインプリンターとそこから出力される印字の音に迫力を感じ、研究をしているなあという気分に浸っていましたが、もちろんこれは大きな勘違いでした。データのバックアップのためのフロッピーディスク(記録媒体)は8インチでした。目の前に持つと顔が隠れるほどの大きさでした。しかも128Kバイトかその倍くらいの容量でした。先ほどのアンケートのデータを保存するのに4枚くらい使っていたと思います。M1の終わりのころに、研究室では米国との共同研究で、子どもの論理的思考力とプロセススキルズを調べる調査を行うことになりました。そのとき、米国の方から同じ統計パッケージで分析したいので、できればSASという統計パッケージを使ってほしいといってきました。早速、大学の情報処理センターに問い合わせたところ、そのパッケージがあるということで、SPSSに変えてそれを使用することになりました。しかし、当然のことながら誰もSASの使い方がわかりません。そこで、SPSSの時にはわけがわからなかったので、私がSASを勉強して分析することを申し出ました。ところが、マニュアルは分厚い英語でかかれたもので、かなりとまどってしまいました。情報処理センターに問い合わせると、基本的な利用方法を日本語で解説したものがあるということで見せてもらいました。その解説書は、「金沢大学の情報処理センター」が出しているものでした。まさか5年後に、その大学の教育学部に勤めることになるとは思ってもいませんでした。その解説書を用いて勉強し、SASの動かし方がわかるようになりました。やっと、自分の力で研究できるようになった気分でした。このころになると、TSSといってカードではなく端末からプログラムを実行するようになっていました。私の研究は、子どもの自然認識に関する調査が主でしたので、大学院生活の5年間、この統計パッケージには大変世話になることになりました。その間、大型コンピュータの処理速度は上がっていきましたが、基本的な操作はいっしょでした。
 大学院M1のときは、大型コンピュータの利用に並行して、パーソナルコンピュータ(富士通FM8)が研究室に入ってきました。今、考えれば、何ができるのだろうといったレベルのものです。記憶装置は、後には5インチのフロッピーディスクになりますが、当初はテープレコーダを用いていました。BASICでプログラムが組め、最初にプログラムしたのは、For~Nextを用いた繰り返し演算だったと思います。自分でプログラムが組めたときは、本当に感動しました。簡単な演算は大型を用いずにこれを用いたり、分析結果の棒グラフを書かせるプログラムを作成し、書かせたりしました。学会の発表資料も手書きの時代で、グラフを書くのは大変でしたが、これを用いるようになって楽になり、研究内容はともかく、見栄えがするようになりました。その後、漢字ロムを埋め込んで、漢字が出るようになりました。これをワープロとして用い、先ほどの米国との共同研究における日本語の調査問題を作成しました。研究室において、最初にコンピュータで漢字を用いて調査問題を作成したのがそれだったと思います。しかし、今考えるとひどいもので、一文字打つごとに数秒間スクロールしていたような気がします。プリンターも性能がよくないので、印字のドットが目立ち、画数の多い漢字は、穴がつぶれていました。子どもが漢字が読めるように、さすがにルビは手で書いていたと思います。その後、研究室ではワープロとしてはワープロ専用機が購入されました。また、大学院の4年ころでしょうか、16ビットだったと思いますがIBMのパソコンが入り、それ用のアプリケーションも用いるようになりました。ワープロなどの専用機に近い動きをしました。表計算もマイクロソフトのマルチプランが入っていました。しかし、現代のExcelに比べれば、並び替えなどで時間がかかったり、できそうなことができなかったり、何か扱いにくかった印象があります。

NE98時代
 大学院5年間を終えて、金沢大学に赴任したときに、まず、研究費で買ったのはコンピュータでした。やっと自分個人が使えるコンピュータが手に入ったといった感じでした。今よりもかなり高いものでした。ソフトが充実しているということで、NEC98を買いました。10MHz程度だったと思います。現代はGHzの時代なので、それだけでも数百倍遅いということになります。5インチのフロッピーディスク用ドライブが2つあり、1つはアプリケーション、一つはデータなどの保存用としておもに使いました。フロッピーディスク(約1Mバイト)にアプリケーションが入っていたわけですから、今考えればコンパクトなアプリケーションでした。
 当時、NECのパソコンのOSはマイクロソフトのMS-DOSでしたが、自社独自の部分がありました。そのため、おもしろいソフトが後に継承されにくくなったのが残念です。しばらくして、LISPでプログラムが組めるソフトを買い、プロダクションシステムで子どもの認識過程を表現したりしました。この時代には、本当に面白いソフトがあったと思います。ニューラルネットワークのソフトをはじめて買ったのもNECの機種で動くソフトでした。ソフトの値段は、当時もう一台コンピュータが買えるほどでした。ニューラルネットワークのソフトで1人の子どもの分析を行うのに、数時間演算しっぱなしということになりました。これでは研究にならないので、このソフトだけのために、並列処理を行えるアクセラレータを購入しました。これももう一台コンピュータが買える金額でした。
 業者からは、変なものばかり買っているといわれ、一般的なソフトや周辺機器、たとえば、ハードディスクなどを買うようにすすめられました。しかし、購入しても今で言うマルチタスク(複数のソフトを同時に利用)ができない時代で、あまり意味を感じず、それよりもかえってトラブルが多くなることがいやで、あまり周辺機器を充実させませんでした。1台のコンピュータを充実させるよりも、金沢大学に赴任して3年目くらいからは、2台目のコンピュータを購入し、同時に2台異なるアプリケーションを用いて研究をしていました。コンピュータがマルチタスクできないので、1つのPCで出た結果をもう一つのPCで異なるソフトを用いて処理をするといったように、2台必要だったわけです。その後、LANが整備されてきて、メールもできるようになりましたが、今のようにつなげっぱなしでは他のソフトが使えませんので、1日に1回メールを確認する程度でした。今と違って、メールを使っている人は少なく、共同研究関係のメールが3日に1度くる程度で、のんびりしたものでした。やや急ぎの用は、電話で話すことが多かったと思います。結局、Windows95がでるまで、ハードディスクもつけず過ごしました。ニューラルネットワークで研究をしていると、ものすごいワークステーションが研究室に置いてあってといった勘違いをする人もいました。学会である大学の院生から質問され、現状を話すと「そんな状況で研究ができるんですか」と半ば呆れた感じでいわれたのを覚えています。

Windows95・98時代
 Windows95については、前々からうわさを聞いていて、マルチタスクができることで、それがでるまでずっとコンピュータを買い変えるのを控えていました。さすがに限界にさしかかったころようやく販売され、搭載されたコンピュータを買いました。最初のWindowsは、これまでのNEC98用のソフトの活用を考え、NECにしました。その後、NECの独自路線の撤退で、98時代のソフトが使えなくなってしまいました。文字や図、写真も取り込めて便利になりましたが、当初は、統合ソフトのできはまだまだといったところで、よくフリーズしていました。実際に落ち着いてマルチタスクができるようになったのは1998年に発売されたWindows98からでしょうか。
 マルチタスクによりLANはそのままつなげっぱなしで、インターネットによる情報の収集も容易になってきました。添付ファイルも送りやすくなり、電子メールによる共同研究が容易になってきました。一方で、いらないメールが多くなったのも事実です。Windows98のころには、コンピュータでビデオも扱うようになりました。しかし、容量の関係でビデオファイルをそのまま取り込んで編集するのではなく、エンコーダーを用いてMPEG1に圧縮したものを取り込んでいました。単に、切り貼りの編集でしたらこれで十分でした。大学の理科教育関係の授業で、編集した小・中学校の理科授業を見せられるようになりました。授業といえば、プレゼンテーションソフトを用いて、説明をするようになったのもこのころです。
WindowsXP時代
 2001年に発売されたWindowsXPになってくると、ハードディスクも大容量の時代になり、ビデオの編集を容易に行えるようになりました。とくに、子どものプライバシー保護のため、容易にモザイクなどをかけることもできるようになりました。コンピュータの処理速度もギガレベルになり、あまりフリーズすることがなくなりました。Windows98からWindowsXPへ移るころには、統計ソフトAmosによる共分散構造分析を行うようになりました。考えてみれば、最初に用いたのは大型コンピュータでしたが、それよりもはるかに性能のよいコンピュータを、パーソナルコンピュータとして用いるようになったといえます。これで研究が進まなければ、それを使っている私自身の問題だといえるでしょう。授業もプレゼンテーションで多くの具体的な映像を用いて行うようになりました。また、Windows XPはTablet PC Editionがありました。当時さっそくTablet PCを購入し、大講義室では黒板を使わず、その場で手書きした内容をプロジェクターに投影しました。学生のほうを向いて書きながら話ができることと、字も大きく書けるので学生はどの席からでも見えやすくなったと思います。
Windows Vista 時代
 2007年の1月にはWindows VistaのPCが発売されていたと思います。その年の3月には、Vista搭載のノートPCを購入しました。Vistaを利用したかったからではなく、これまで使っていたノートPCがもう限界だったので買い替えようと思った時期がたまたま重なっただけでした。ハード的には処理速度も速くメモリもめいっぱい搭載したノートを買ったつもりですが、Vistaの最初の感想は、立ち上がりが遅いということでした。ただ、一度立ち上がれば、XPより安定している感じを受けました。また、スリープ状態からの復帰も速いと感じました。ガジェットは、機能として便利がよいと思いました。マニュアル的な設定の変更は、どこに何があるのかわかりづらかったですが、これも慣れ次第でした。自分で設定を変える必要のない人には、かえって便利がよくなったかもしれません。このころに、自己組織化マップの計算に時間がかかる処理をすることが多くなり、Vista搭載のワークステーションを購入しました。
その後
 その後Window7、Windows8、Windows10、Windows11というようにバージョンがアップされました。それぞれ一長一短を感じながら利用してきました。2011年にはサーバーを購入し、開発したシステムの運用を行うようになりました。当時のサーバーのOSは、Windows Server 2008 R2でした。現在はWindows Server 2019にバージョンアップしています。

AIについて

AIにおける社会変化と人間の対応
 AI については、ディープラーニングによって第3次 AI ブームが起こりました。内閣府では Society5.0 を掲げ、 AI によって大きく変革を迎える社会への対応が求められています。 AI の発展によって社会は変わりますが、どれほど変わるのでしょうか。「仕事が奪われる」といった話もありますが、確かに従来の仕事がなくなるものもあるかもしれません。しかし、仕事の質や内容が変化するだけであり、人間が不要になるわけではないと思います。ただ、これまでの社会変化と異なり、より大きく、急激に変化が起きるため、従来のようなゆっくりとした対応では不十分だといえます。
現代の AI の多くは、大量のデータに対して人間が位置付けたものや適切に処理した結果をもとに、特徴量を検出し情報のパターン化を行います。そして、新たに入力された情報をそのパターンに当てはめて処理します。そのため、妥当な処理結果が得られることが多いですが、最終的には人間が確認する必要があります。また、これまでに存在しなかった新しい事象については、既存の特徴量による判断が適切かどうかという課題が生じます。これについては特に人間による確認や判断が必要です。日本人は AI という言葉に対して、人間よりも優れていると考えやすい傾向があります。しかし、根拠のないものに判断を任せるべきではありません。
 現代の AI は「特化型 AI 」と呼ばれ、特定の処理に特化しています。たとえば画像処理が得意な AI や、言語処理が得意な AI です。一方、アニメのネコ型ロボットのように様々なことができる AI は「汎用 AI 」と呼ばれ、次元が異なり開発が難しいとされています。大学では小・中学生向けの科学教室を開催しており、そこで 私はAI の話をすることがあります。その際、「特化型 AI をいくつか集めれば汎用 AI になるのでは?」という質問を受けたことがあります。汎用 AI になると、総合的な判断が求められるため難しさが増します。それだけでなく、人間の価値観や感情にも関わるため、より複雑な課題が生じます。
 特化型 AI と汎用 AI の大きな違いを子どもに分かりやすく伝えるために、「汎用AIは嘘をつくことができる」と説明することがあります。ここで言う「嘘をつく」とは、 AI が人間に反乱するという意味ではなく、状況や文脈を把握し、人間の心情も考慮して判断できる、ということです。
 たとえば AI で作られたアンドロイドがいるとします。仕えてきた主人が病気で入院したとき、主人の容体がかなり悪化し、アンドロイドがお見舞いに行ったとします。アンドロイドは画像認識や身体的特徴を分析して「調子が悪そうですね、明日にも危ないかもしれません」と言ったとします。確かに正しいかもしれませんが、それが求められる答えでしょうか。データ上はそうかもしれませんが、「大変だと聞きましたが、思ったより顔色が良いですね。早く元気になって退院し、またお仕えさせてください」といった答えが求められるのではないでしょうか。つまり、何でもデータ的に正しい結果を出せば良いのではなく、状況を把握し、人間の心まで理解して反応することが大切になります。その結果として、嘘をつくこともあります。このような状況把握は AI の苦手とするところです。また、人間の心を客観的に表現したり評価したりできるかという問題にもなります。ある人にとって良いことでも、他の人にとっては良いとは限りません。人間の心を満たす絶対的な基準がない限り、判断することは困難です。日本人にとって良いとされることも、他国の人にとっては良くない場合もあるでしょう。
 人間の価値観や心情に関わることは、人間が担うしかないのではないかと思います。また、これまでの仕事でルーチン的なものは AI が人間に代わるようになると思いますが、そのような仕事においても価値観や心情に関わる要素を付加することが、人間の役割として必要になるのではないかと思います。

全体と部分

部分の組み合わせの限界
 このサイトの中心となるテーマは、部分と全体との調和をいかに図るかという点です。これまで、自然認識について研究してきました。当初は、自然認識のプロセスをデータ的な知識とそれを処理する論理などの要素に分け、それらを組み立てることで自然認識のモデルを構築し、解明を試みてきました。当時は、第 5 世代のコンピュータということで AI の開発が盛り上がり、その影響もあったと思います。しかし、期待された AI の開発は実現できませんでした。私も子どもの自然認識についてモデルに当てはめて分析していましたが、うまく説明できる部分もあったものの、説明できないことの方が多く、限界を感じました。要素に分解したり、部分を単にまとめて全体を作っても、子どもの自然認識の状態を十分に表現できなかったということになります。このような現象は生物にも当てはまります。単に細胞を集めれば一つの個体ができるわけではありません。細胞の集まりから器官といった新たな働きが生じ、それらが集まって個体としての全体的な働きがうまく機能しています。細胞だけを観察しても個体を理解できないのと同じです。このように、生物では部分と全体がうまくかみ合い、調和して働いていると言えます。
全体についての表現の限界
 自然認識の研究において、ニューラルネットワークによって複数の要因や条件を同時に組み込みながら、子どもの認識に対応するモデルをこれまでよりも表現できるようになりました。しかし、ネットワークは全体に関係しており、各要因がどのように絡んでいるのか解釈するのが難しくなりました。特徴量の検出としてどのようなパターンやイメージを持っているかはある程度分析できましたが、各要因がどのように関連するか、どのような論理なのかについての解釈は難しくなりました。人間の表現に近づけば近づくほど、解釈が困難になってくるように感じます。現在、 AI の開発においてディープラーニングが注目されています。特化した状況では人間の処理に近いか、それ以上の処理ができるようになってきています。しかし、そのシステムがなぜうまくいくのか説明がつかないことも多くあります。人間のように振る舞うモデルができても、そのモデルをもとにどのように人間が認識しているのか説明できない場合もあります。私自身もそのような問題に直面しています。このような状況になると、量子力学における位置と運動量に関する不確定性原理を思い出します。両者を同時に確定できないという状況に似ていると感じます。
教育における部分と全体
 教育において、教科の学習は教科の見方・考え方といった枠組みで対象や問題を捉えます。このことによって育成される能力は、どれほど他に通じる汎用性があるのでしょうか。もし、あらゆることに通じるのであれば、さまざまな教科は必要なく、一つの教科の学習で十分ということになります。いろいろな教科を学ぶ必要があるということは、その教科でしか培えない能力があり、しかもそれが他の状況で活用できる汎用性があるとは限らないと言えます。そして、それらを通して一人の人間の能力を育成するわけですが、教科で培った各能力がどのように統合された能力になるのか、あるいは統合されている能力と思われているものが実際に存在するのかという点が問題になります。これも部分と全体の問題です。 能力が統合される仕組みが明らかになれば、汎用 AI の作成にも参考になると思います。人間の認識や思考には、一般的に通じる論理もあるようですが、状況依存的な部分が多く、一般的な能力の存在やその形成過程については今後も研究が必要だと言えます。
特化した能力と総合的な能
 人間の能力においても、数式が得意であるとか、絵を描くのが得意であるなど、すべてが得意というよりも、ある能力が特化している人が多いと言えます。この特化した能力だけを伸ばせばよいのか、それとも他の能力も伸ばすことで特化した能力もより高めることができるのか、特化した能力と全体の能力の関係も部分と全体の問題です。
 将棋を指す時、アマチュア棋士とプロ棋士を比べると、脳の利用部位が異なることが指摘されています。プロ棋士は一般的に論理的処理を担当する部位だけでなく、他の部位も用いていることが明らかになっています(*田中 2011 )。その部位は直観において用いられるという解釈もされています。このことは、プロ棋士が脳のさまざまな部分を使っていることを示しています。問題解決において、一般的に必要とされる脳の部位を用いることは当然ですが、それだけでなく、さまざまな部位が関係している可能性もあります。したがって、特化した部位だけでなく、いろいろな脳の部位も活性化できるようにしておくことは、未知の問題解決において必要になると考えられます。日本では、すぐに理系と文系に分け、あまり必要でないと思われる科目を勉強しないことも多くあります。理系と文系という明確な分け方は問題ではないかと感じます。国の学力調査で対象とされる科目だけでなく、特に芸術分野の学習は脳の活性化という点でも大切だと思います。
*田中啓治:「直観をつかさどる脳の神秘 - 将棋プロ棋士に見られる大脳基底核の特異な動き」 RIKEN NEWS 、No.358 April 2011

3Dプリンターで作成したギターのネック

ギターのネック
 このサイトでも指摘しているように、自分の専門や得意としている領域をどんどん伸ばしていくことは大切ですが、さまざまな分野にも関心を持ち、脳を活性化しておく必要があると思います。私自身もそういうことから、3Dソフトでギターのネックの一部(4フレット分)を設計したものです(下図)。大きさもほぼ学校で使用しているサイズで、3Dプリンターで作成しています。空洞で、上下に四角い突起があり、そこに弦の代わりにタコ糸や輪ゴムをかけます。音を出すわけではありませんが、基本的なコードを押さえる練習のために使うものです(4フレットあれば基本コードは押さえられます)。理科の先生が何を作っているのかと思われるかもしれませんが、音楽の時間に生徒の人数分のギターがない場合があります。2人で1台の場合、一人が練習している間、もう一人は見ているだけになります。その時間がもったいないと感じました。練習不足で実際に音がうまく出せないと授業が面白くありませんし、授業の目的も達成できません。そのため、この器具を設計し作ることにしました。実際に使ってもらうと、生徒にも人気があります。壊れた場合はまた作りますが、「ジャガイモの繊維のプラスチックなので、そのまま燃えるゴミに」と音楽の先生に伝えています。そのことを生徒にも伝えたところ、生徒たちはこの道具を「ジャガイモ」と呼ぶようになりました。使い勝手を確認するために授業を参観したとき、最後に音楽の先生が「作った先生に何か質問がありますか」と紹介してくれました。出された質問は「ヨウ素液で青紫色になるんですか?」「いえ、繊維であってでんぷんはないので、青紫にはなりません」など、ほとんど理科的な質問でした。
図の3Dプリンター用ファイルがダウンロードできます。

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