アラカルト

ここでは,これまで研究に関することや教育に関することについて,思いついたことを書いています。内容は「▼」をクリックすると開きます。

教科の学習で育成していること

教科の学習における特徴量
 人間は,日常の生活のいろいろな情報についてすでに特徴量の検出を行っています。自然事象は世界共通であるため,典型的な特徴量の検出は素朴概念として世界的に明らかにされており,科学的な解釈と異なるものが多くあります。素朴概念の典型的なものとしては,運動方向に力が働いているといったものがあげられます。理科の学習では,科学的な特徴量を形成すべく学習が行われていますが,素朴概念の変容も考慮しながら,特徴量が形成されやすい自然事象を提示することになります。そのため,複雑な事象の単純な部分を抽出したようなものであったり,特殊な状況下での事象であったりなど,日常生活にはなじまないものを対象にすることも多くあります。例えば薬品棚にしかないような物質を使って実験をすることがあります。日常生活における事象のままでは,情報が多岐にわたり特徴量の検出が難しくなるからです。
 人間の認識や思考には論理的側面があります。論理的思考も特徴量の一つとして考えるとその特徴を説明しやすくなります。入ってくる情報を処理するさいには,いくつかの特徴量が検出されると考えられます。その特徴量は,それぞれ考慮される重みが情報によって異なったり,各特徴量から導かれる結果が異なったりする場合もあります。論理もその一つです。それぞれの結果を多数決や平均などの処理で結論が出されます。したがって,入ってくる情報によって特徴量の検出も異なり,論理的処理もその一つであるため,結果的に論理的処理が大きく反映されたり,されなかったりします。このことから論理的処理が状況に大きく依存することを説明することができます。よく用いられる特徴量は,それが用いられる重みづけが大きくなるといえます。発達段階の指標として用いられる一般的に通じる論理的思考というのは,いろいろな状況で用いられるようになり,用いられる重みづけが大きくなってきたものと考えられます。したがって,よく用いられるということはあっても,どのような状況においてもその論理がうまく用いられるわけではないといえます。
 教科の学習においては,教科特有の特徴量の形成やその特徴量を用いるといった限定がはたらくため,特徴量の形成や利用がある程度明確になってきます。必要な特徴量の重みが大きくなるともいえます。したがって,その教科に関わる内容の処理や結果の出力がスムーズに行えるようになります。一方,日常生活や社会における諸問題の解決となると,ある教科の特徴量で処理できるものではなく,いろいろな特徴量が必要になり,人によって用いる特徴量にも違いが生じると考えられます。たとえば総合的な学習の問題解決においては,いろいろな特徴量が用いられるケースが多いといえます。そのため,ある期待される特徴量を意図的に形成させるのは難しくなり,その形成の効率が悪くなることも考えられます。
何を育成しているのかの評価
 人工知能では,ディープラーニングによってたくさんの特徴量が検出され,それらを複合的に用いることによって適切な処理が行われ,人間に役立てられています。しかし,なぜうまくいくのかの説明は困難なケースが多いといえます。例えば,特徴量に関わる重みを試行錯誤して変えることにより結果的にうまくいくといったこともあります。また,多くの特徴量の結果を平均したり,多数決を取ったりするなどの方法によりうまくいくといったことがあります。このようなことは,教育においても生じることが考えられます。何を育てているのかということはあまり明確でなく,日常生活や社会的な課題に対して問題解決を行い,プレゼンやレポートなどで一定の結論をだすことができれば,それでよいと評価することがあります。その結論に至るにあたっては,まったく根拠や理由がないというわけではないと思いますが,そもそも育てようとしているのは何であり,それが本当に育っているのかをチェックする必要があります。多くの特徴量の中から結論を出していくような方法を学んでいるのか,特定の特徴量だけに着目して結論を出すことを学んでいるのか,プレゼンの仕方を学んでいるのかなど,何を学ばせようとしているのかを明確にする必要があります。また,問題解決の内容が,ある教科の内容に関連しているからといって,その教科で用いる能力を使っているとは限らないことに留意する必要があります。さらに,総合的に問題解決を行うことによって特定の教科の能力も育成できるのではないかという考えもあると思われますが,そもそも複雑な要素が絡んでくる問題の中で,ある教科の特徴量を形成するようなことが簡単にできるとは思えません。このようなことから,教育的には結論が出たからといって「よし」として評価するのではなく,何を育成できたのかの評価を考えておく必要があるといえます。

人間らしさ

人間は論理的であるか
 学生の時から大学の教員になったばかりのころまでは、人間の認識や思考の本質は論理と考え、人間の論理的思考や論理的手続きに焦点を当てて研究をしていました。時は第5世代のコンピュータ開発ということで、現代とは違った人工知能のブームがあったころです。その手の情報も多く、その影響も受けたのは確かです。しかし、子どもの理科の問題解決における認識や思考を調べると論理では説明できないことが多くありました。そのため、研究そのものも行き詰っていたわけですが、そのときにニューラルネットワークと出会いました。
 論理とは全く逆で、イメージや直感に近いものでした。そこで、子どものもっているイメージに近いものとその処理を分析しました。特徴量の分析になります。これまでと違った側面から子どもの認識や思考について示すことはできました。しかし、論理とのかかわりや特徴量がどのように形成されるかなどがわからず、どのように教育すればよいかの示唆は十分に得られたとはいえず、ここでも行き詰まりを感じました。
 現代においては機械学習におけるディープラーニングにより、ニューラルネットワークの構造や学習も複雑になり、より人間らしい判断やそれ以上の処理ができるようになりました。いろいろな特徴量を検出しそれらが複合的に働いているからだと考えられます。人間に近づいているため、その仕組みを分析すれば人間の認識や思考が解明できるように思われます。しかし、システムが複雑でどうしてそれでうまくいくのかの説明がさらに困難になり、その開発者でさえわからないといったことがいわれています。したがって、人間に近づいたモデルはできるものの、その処理の意味が解明できないため人間の認識や思考が十分に解明できないことになります。
 以上のことから、私の研究においても人間らしさの解明はほとんど進んでいない状況です。わかったことは、論理とともに特徴量の検出から人間をとらえていく必要があるということです。論理と特徴量の関係ですが、最初は特徴量があってそれを上位の論理が束ねていくのではないかと考えていました。最近ではそうではなくて、人間は特徴量の検出によって認識や思考を行い、それと同レベルで論理も並行しているように思われます。つまり、あるものを認識し思考する場合も、いろいろな特徴量が検出され、その一つとして論理もあると思われます。このようにいろいろな特徴量から、いろいろな結果が出力されると考えられます。機械学習ではその平均や多数決などで、最終的な判断を行うことにより答えを出すことによって、成果をあげています。「アンサンブル効果」といわれるものです。それぞれの特徴量の検出結果には、お互いが矛盾するような結果もあると思われます。人間もそのような判断を行うため、論理だけでは説明しにくかったり、感情が入ったり、これまでと違った発想が生まれたりするのではないかと思われます。
人間とアンドロイド
 作成された人工知能が人間的であるかどうか調べる方法として、「チューリングテスト」が提案されました。それは、検証方法の一つですが、通常私たちは人間らしさをどうとらえたり、感じたりしているのでしょうか。物質との違いからいうと、そこに何か意志があるように感じるということではないかと思います。そして、意思があるということは、何らかの特徴量を検出しているのではないでしょうか。あるいは何らかの特徴量をもっていると憶測しているのではないでしょうか。そして、その特徴量を共感できれば、人間らしさを感じると考えられます。つまり、「そう感じているからこういうことをする」「そうとらえているからこのようにする」「このような理由でこうする」「このような理屈でこのようにする」ということを感じているように思われます。共感できないような行動をとれば、人と感じてもいわゆる「人でなし」ということになります。人間であることは、論理的というかある程度の賢さは求められるでしょう。でもすべてルールで論理的であったりすると「ロボットみたい」と、人間らしさを認めてもらえないともいえます。少し融通がきいたり、あいまいであったり、直感的であったり、感情的であったりすることも求められると思います。
 相手の特徴量を意識するということは、人がコミュニケーションするときにそれを意識しながら話していることが考えられます。相手の話すことを予測することから、文法上の間違いやや言い間違い、聞き取れなかったことも埋めて話を聞いていると考えられます。また、その特徴量には、相手の感情や気持ちも含まれるため、それを推し量ることができると思います。ペットのイヌやネコに話しかけるのも、イヌやネコがもつ特徴量を推し量って、あるいは人間側が勝手に作り上げて話しかけていると思います。コミュニケーションにおいては、このように特徴量を推し量ることになりますが、今後は、アンドロイドのようなものが作成され、それに対しても特徴量を推し量るようになると思われます。
 アンドロイドと人間の関係について、「イヴの時間」というアニメがあり、その関係について考えさせられるという点でおもしろいと思います。一定の特徴量があれば人間のように思えますし、人間であると錯覚するかもしれません。そこに共感すれば人間と同じように扱うべきだといった感情も生まれます。アンドロイドが、人間のようにふるまうのは、人間の感情をもつのか、そこに人間性を見出してもよいのかということになります。このアニメで考えさせられる点ですが、ネタバレにならない程度で次のようなことがあげられます。
・人間性のようにみなすと、共存しよう、大切にしようという考え方になる。
・人間性ではないとみなすと単なる便利なツールである。ツールとしての扱いでよい。
・人間とは違いそこに愛情があるわけではないし、それらが作るものは安全といえるか。
・アンドロイドを人間とみなすものに対して、そこまでのめり込んでよいのかといった警鐘。
・アンドロイドが技能的に人間にとって代わるとなると、例えば音楽の演奏など人間が演奏する意味がなくなるのではないかなど。
 以上のようなことがあげられます。人間らしさとは何かについて考えさせられると思います。人間が感情や意識を持つとはどういうことなのかということにもつながってきます。教育者にとっても重要な問題と思われます。
教育的示唆
 いろいろな特徴量が並行して存在しており、それらが複合しアンサンブル効果で認識や思考が行われると考えると、教育において次のような示唆が得られます。
・各教科の学習においては、各教科の見方・考え方の育成が求められている。この教科の見方・考え方は、その教科独自の特徴量の検出といえる。教育においては、その特徴量を検出できるようにするということになる。
・その特徴量の検出をよく行うかどうかで、用いられるようになるかどうか決まってくる。したがって、その教科や他の教科においても各教科の関連のもとに、教科の見方・考え方を用いるようにするとよいと思われる。
・認識や思考においては、いろいろな特徴量の検出が並行して行われ、特徴量の一つとして論理的処理があると考えられる。そのため、論理の用いられ方は、他の特徴量の影響を受ける。つまり、論理は状況に依存して容易に用いられたり、用いられなかったりする。一般的な形式論理は、いろいろな特徴量の検出とともによく用いられる論理として形成されると考えられる。したがって、その形成にはある程度の期間を要する。一般的な論理的思考が容易に形成されず、発達によるといった考えもでてくることになる。
コミュニケーションについては、教育的には次のことが示唆されます。
・人とのコミュニケーションにおいては、一般的には、相手の特徴量を意識したり、推し量ったりしており、外に表現された言語の意味だけの解釈とは異なった理解をしている。
・言語だけでなく声色や表情から特徴量を推し量り、どのように思ったり考えたりしているかを理解することができるが、わからないほうが都合よい場合は、文字だけによるコミュニケーションが望まれるといえる。
・現代においては、ネット上でのコミュニケーションが増え、昔に比べればコミュニケーションの量はかなり増えている。そのためかえって自分の特徴量を推し量れないようにしている。相手にとっても推し量るのが面倒になるので、絵や文字のみの情報がすべてであるとして判断することが多いと思われる。
・実際のコミュニケーションによる特徴量の表出および憶測は、人間らしさを求めていくと必要になり、これからの時代には教育においてより必要とされるのではないかと思われる。

作ることによる人間の解明(認識・思考・対話)

人間の認識と思考の解明
 人工知能の作成や理論を通して,人間の認識や思考がどういうものであるかを研究する立場があります。科学が自然事象に対するモデルをもとに仮説を立てて検証することを考えると,科学的な方法といえます。最近の人工知能は人間に近づいてきています。ある側面だけをみると人間を超えているともいえます。人間に近づいているということは,人間の処理に近い部分もあると考えられます。あくまでも可能性であり,人間らしいからといって人間の処理と同じとは限りません。全く異なった方法で類似した処理を行うことができるからです。
 現代の人工知能が人間に近づいた大きな要因の一つは,ディープラーニングによる特徴量の検出が行われるようになったことがあげられます。そのようなシステムの開発では人工知能というのではなく機械学習といわれています。この特徴量は,情報をある観点から集約できるものであり,情報のパターン化やカテゴリー化が行われます。情報がカテゴリー化され位置付けられると,これまでの処理でうまくいったものを用いて処理ができるようになります。そのため,どうしてそうなのかの根拠は必ずしも必要なくなることがあります。この特徴量は,教えなくても自動で生成することができ,機械学習では「教師なし学習」とよばれます。人間も情報をそのままデータとして記憶するのではなく,何らかの特徴量を検出してカテゴリー化して集約しています。そして,その特徴量が形成されると,その特徴量をとらえる枠組みで情報をとらえることになります。立体の環境にいる人間は,たとえばサッカーのゴール近くにある立体的に見える広告が,平面に書かれていることがわかっていても立体的に見えてしまいます。このように,特徴量を検出できることは,情報をある枠組みによってとらえてしまうといったことを生じさせます。一方,この枠組みがあるため,入ってくる情報が初めてのものであっても,特徴量を検出して認識できるといった柔軟性のある認識や思考ができるといえます。また,あいまいな情報であっても,特徴量から補って処理することもできます。このようなことから,あいまいであってもそこに労力をかけずに,次の段階の処理や上位の処理に労力をかけることができます。そして,全体として高度な処理ができるようになるといえます。このように人間が特徴量を検出できることは,認識や思考に次のような特徴や利点が生じると考えられます。
・情報を集約してパターン化できる。そのため,これまでの情報だけでなく新しい情報の処理や対応が容易となる。
・特徴量によってより抽象化した言語や記号との結びつきが容易となり,論理的処理との結びつきができると考えられる。
・多くの特徴量の検出ができ,状況によって用いられるものが異なっていると考えられる。特徴量どうしの関連付けにより,記号では関連付けにくいものの関連付けができ,思考を飛躍したり広げたりすることができる可能性がある。
・一方,特徴量が検出されると,その枠組みから脱した認識や思考は難しくなる場合がある。
学校教育においては,特徴量の検出から次のようなことが考えられます。
・学校においては,教科等でその教科独自の特徴量の検出(教師あり学習)をしている。
・学校教育にいては日常生活では形成されにくい特徴量の形成,あるいは日常生活で形成されていた特徴量と異なるものを形成するため,特徴量の形成が困難な場合がある。
・学習において「転移」というものが考えられる。この転移は,これまでの情報で用いていた特徴量の検出を他の情報に適用するものと考えられる。したがって,転移は特徴量の検出が厳密であるよりも,ある程度許容性があるほうが転移しやすいと考えられる。あるいは,どのような情報にも共通している汎用性の高い特徴量の検出は転移が生じやすいと考えられる。
・教育において,明確な特徴量を形成するのは良いが,あいまいさがないと汎用性が高まらないことも考えられる。機械学習における過学習に陥る可能性がある。少し異なれば特徴量が検出できないといったことや,新しい発想が生まれないといったことが生じ,応用性を欠くことになる。
・教科の見方・考え方では明確な特徴量を形成させるが,総合的な学習やプロジェクトなどは,知識の活用を必要とし,明確な一つの特徴量より,いろいろな特徴量を全体としてあいまいな部分もあると思われるが活用していることが多い。それぞれの特徴量を厳密に論理的につなげるのではなく,また,論理的につながるものだけでは,問題解決ができないこともあると考えられる。
・特徴量は,教育において早くから形成したらよいのではないかといった考えもある。早くから幼児にいろいろな教育をという考え方もあると思われる。しかし,早くから決まりきった特徴量の検出をおこない,それから抜け出せず応用が利かないことも考えられる。新しいものが創造できない可能性もある。いわゆる過学習になる。社会変化がない場合は良いが社会変動の激しい場合には,有効でないことも考えられる。
特徴量と論理的思考
 特徴量は,情報のカテゴリー化やパターン化に長けています。一方,人間の思考は論理的な側面もあり,特徴量検出と論理的思考との関わりが重要となります。この関係については,次のことが指摘できるのではないかと思われます。
・情報は,特徴量が検出され,言語,記号などと結びつきラベル化されるといえる。ラベル化されると特徴量から切り離しやすくなり,論理処理ができると考えられる。情報の処理においては,特徴量検出のほうが容易であり,論理との結びつきのほうが難しい。人間においては,パターン処理は速いが論理的処理には時間がかかるといった特徴と一致する。
・たくさんの特徴量がお互いに関連をもつには,同じようなラベル化が行われ結びつく必要があると考えられる。その同じようなラベル化が論理的処理と結びつくことにより,一般的な論理が形成されると考えられる。したがって,論理的思考は一つの学習においてすぐに形成されるというものでなく,時間がかかるといえる。
・特徴量が明確なほうがラベル化しやすく論理と結びつきやすいと考えられる。一方,特徴量がはっきりしすぎると類似したものと結びつきにくくなり,より汎用的な論理と結びつきにくくなる。汎用性のある論理を形成するためには,特徴量を検出しながらも過学習にならないように柔軟さが求められるといえる。それらの調整がうまくいくかどうかで適切な特徴量の形成ができると考えられる。
・教科の学習においては,明確な特徴量の形成を求める形で行われるが,総合的な学習でのプロジェクト研究などでは,明確さより柔軟な特徴量の形成が行われると考えられる。
対話について
 以上については,個における認識や思考を想定してきました。その個が集まって対話を行った場合に,特徴量検出や論理的思考に影響が生じるといえます。対話というより対戦になりますが,将棋などのシステムでは,対戦させることによってより強いシステムを形成することが行われています。対話を行うことによって,特徴量や論理的思考について,次のような影響が考えられます。
・対話は言語が中心であるが,身振り,表情などその他のものも関係する。言語以外のものも特徴量には影響を与える。
・対話は言語中心であるため,言語を通して相手の特徴量に影響を与えると考えられる。言語における対話は教師あり学習のようにフィードバック情報になると思われる。言語だけでなく図やイメージの表現を伴うと特徴量そのものにも大きく影響を与えると考えられる。言語だけの対話より図などの表現によるほうが共有されやすい可能性がある。これらを通して,対話により相手に自分の特徴量が形成されると考えられる。
・対話によって,相手と同じような特徴量が形成されることによって,相手の考えの理解がでると考えられる。一方,特徴量にはずれが生じるため,相手と異なった特徴量が形成されることも考えられる。
・言語による論理的な対話は,特徴量と関係づけられなければ十分に納得がされない。大きく影響を与えたり,受け入れたりされない。
以上のように,対話について特徴量や論理から見ていくと,お互いの学習や理解について分析していけるのではないかと考えられます。

新しい時代のカリキュラムのあり方(Society5.0への対応)

カリキュラム構成に影響する3つの軸
 カリキュラムの編成について,武村(1985)は「文化的・社会的背景,教育観」の影響をあげている。これを教育の機能も考慮してとらえると,カリキュラムの構成に影響を与える軸あるいは要素として,大きく「学問(文化)の伝承」「子どもの能力の育成」「社会的要求」の3つあげることができる。まず「学問の伝承」,広くは「文化の伝承」については,次のようにとらえられる。現在があるのは,蓄積されてきた文化に立脚しているからであり,その基盤になるものが伝承されていかなければ未来の基盤がなくなってしまう。その文化が役立つとか意義があるかどうかというような問題ではなく,今まで築き上げてきた学問や文化を伝承するということが,教育の目的の一つである。学問や文化については,現在の価値観ではあまり必要性を感じないものでも,将来必要になってくる可能性がある。明治時代の学制発布により始まった教育において用いられた教材は,この学問や文化の伝承を軸にしたものが多かったといえる。また,昭和40年代のカリキュラムにおいては,現代化運動の影響を受け学問の影響の強いカリキュラムとして位置付けられる。
 次に,人間のどのような能力を育成するかといったカリキュラム構成の軸である。どのような能力を育成すべきかについては,社会的な影響もあると思われるが,人をどうとらえるかといった心理学や哲学にも関わってくる。したがって,人間とはなにか,人間はどうあるべきかといった解釈によって,強調される能力には違いが生じる。ゆとり教育が始まった昭和50年代からのカリキュラムにおいては,人間性回復といった視点からカリキュラムが考えられた。人間として育成すべき能力の軸から見直されたカリキュラムといえる。
 次にカリキュラムの構成に影響のある「社会的要求」の軸である。教育においては,現在あるいは未来を見据えた社会的に生じている問題への対処,問題を解決していく人材の育成が求められる。現代のカリキュラムは,社会が急変していく中にあって,社会人としてどのような人材を育成すべきかといった社会的要求の軸が大きく影響しているカリキュラムであるといえる。また,今後Society5.0に対応した教育が求められており,今後も社会的要求の軸は強く影響すると考えられる。過去において社会的要求の軸の強かったカリキュラムは,たとえば戦後すぐの昭和20年代のカリキュラムである。生活を維持していく社会的要求の軸の強いカリキュラムであり,生活単元のカリキュラムであった。
 以上の三つの軸は,複合して影響しているといえるが,時代によって重きの置き方も変わっているといえる。
※武村重和(1985)「新しい時代の人間形成と理科の教育課程」東洋館出版社
Society5.0に対応した教育
 Society5.0において,社会が大きく変わっていくこと,そしてそれに対応していく人材の育成が求められている。つまり,カリキュラムにおいて社会的要求が大きく影響している。とくに,知識・技能の習得だけでなく,情報の活用,情報の解釈,知識・思考の活用,さらに,態度の育成にもかかわるコミュニケーション力,やる気などが求められている。
 Society 5.0はビッグデータと人工知能による大きな社会変革である。そこで,人工知能に着目すると,人工知能がまず社会的ブームになった1980-1990年代をあげることができる。この時代における人工知能は大きな社会変革を起こすというほどのものではなかった。この時代の人工知能は,論理的な処理を中心としたルールベースのものである。たとえて言えば,人が目と耳をふさいで外からの情報を遮断しても,頭の中では論理的に考えることができるが,そのような論理的処理を中心に対象となる問題を解決しようとしたといえる。そのため,一般的な人工知能に対するイメージとは程遠いものであった。なぜなら,人間は論理的な処理だけではなく,視覚や聴覚による処理を行っているところが大きく,それはすべて論理的に処理されているわけではないからである。どちらかというと論理的でないもののほうが多いといえる。見ただけでイヌをイヌと容易に認識できる。しかし,なぜイヌとわかるのかは,論理的に説明しにくい。一方,現代の人工知能はたとえていえば人間の,しかも専門家の目と耳の処理を得ることができたといえる。つまり論理的でない処理も行えるようになった。典型的なものとしては,多くの経験(ビッグデータ)を蓄積し,その特徴を検出し,うまくいった経験を結果として出力できるというものである。専門家が判断したものであったり,日常生活の中で人間がごく当たり前に行っているデータを用いることによって,人間の代わりに判断できたり,補助ができるというものである。データによっては,専門家の目や耳を持って判断できるようになったといえる。現代の人工知能においてこのようなことができるようになったのは,ビッグデータの蓄積とともにその処理が行えるハードウェアが発達したこと,特徴量検出においてディープラーニングという方法が開発されたことがあげられる。一方,このような処理においては,なぜその答えが出てきたのか,どのような論理や根拠によるものなのかは説明できないことが多い。したがって,現代の人工知能においては,論理的な処理も含むが,根拠が明確でない経験的な判断も含まれるということである。そういうことから人間らしいともいえる。
 近い将来人工知能の発達により,人工知能が人間にとって代わり仕事を奪われるのではないかといったことが指摘される。仕事はなくなるわけではないが仕事の内容は変わってくると考えられる。それではどのような仕事が必要になるか,どのような能力が必要になるかということになる。人工知能といっても,答えや結果が正しいかどうかは人間が判断してそのデータを蓄積しておく必要がある。そのようなデータの蓄積には専門的に特化した能力が必要になる。したがって,教育において個人の個性を伸ばし,特化した能力を育成していくことが求められる。また,その判断のためのしっかりした価値観,枠組みも必要となる。さらに,最終的な答えの良し悪しを判断する能力,全体を統合的にみる能力なども必要になると考えられる。結局は,専門的な目や耳は必要であり,新しいデータも必要になる。なにもかも人工知能にとって代わるという考え方は極端な考えであり,現時点でのデータ処理で満足であり,社会が停滞しているときはそれでうまくいくことはある。しかし,社会は常に変動しいろいろな影響を受けるため,その変動に対応した答えを人間が判断する必要がある。人工知能が判断してもそれが良いかどうかの判断はできないので,結局はすべてを任せることはできないといえる。
Society5.0に対応するカリキュラムと教科の見方・考え方のカリキュラムの関係
 Society5.0に対応するカリキュラムは,具体的な課題解決の中で,プレゼンなどの表現力,協働で解決を行うためのコミュニケーション力,協調性などの態度もこれまで以上に重視される。しかし,例えばプレゼン力の中でも相手にうまく伝える表現力だけ高まって,伝える内容が深く分析されたものでなければ意味はないといえる。つまり,探究力とか表現力とかだけが強調されたカリキュラムでは十分でないといえる。そこで,内容が深く分析されたものになるためには,教科の見方・考え方が必要になる。教科の見方・考え方は,教科の基盤となっている学問における見方・考え方に基づいたものといえる。また,学問における見方・考え方を基盤とした人間の能力に基づいたものといえる。したがって,この見方・考え方は,枠組みがあらかじめある程度決まっているためトップダウン的なものである。
 しかし,トップダウン的な枠組みだけでは,society5.0に対応した複雑な社会的な問題は解決しにくい。明確な根拠理由がはっきりしないがこれまでにうまくいった経験や,いろいろな要因が絡んだ複雑系を対象にした問題解決となる。したがって,そこでの考え方はボトムアップ的であり,人工知能のディープラーニングの方法に類似している。したがって,教科の見方・考え方を重視したカリキュラムや授業だけでは,Society5.0に十分に対応できないことが考えられる。教科の見方・考え方を重視したカリキュラムをいかして,Society5.0に対応したカリキュラムを構成していくといった整合性を考えることが,今後のカリキュラム構成においては求められるといえる。

話し合いで本当に深まっているのか

話し合いによって深まるのか
 「主体的・対話的で深い学び」ということで、授業では、話し合いの場を多くもつようになっています。話し合いをするのよいことだと思いますが、形式上、話し合いをするから深まるわけではありません。その教科の見方・考え方で子どもが考えるから深い学びができるといえます。
 そこで、話し合う前に自分で考える、その前にある程度自分の考えをもつということが必要になります。それを省いて深い学びはないといえます。自分の考えをある程度もつことができるようにするには、課題や問いの適切な設定が必要になります。その課題や問いは、子どもに合った難しさのレベルということを考慮しがちですが、それよりも適切な文脈の設定が重要になります。
子どもが考えをもつような文脈の設定
 話し合いをさせるために、いろいろな意見が出るように課題の文脈をあまり絞らないといったことがあります。そして話し合いをした結果、いろいろな意見が出て勉強になったと評価する人もいます。しかし、その教科の見方・考え方で考えなければ、いろいろな意見が出たからといって深まっているわけではありません。
 文脈が絞られないと考えにくい例として、私は日常生活の次のような例をあげます。「今日の晩御飯は何がいい?」といった質問です。この質問はすぐには答えられないことが多いです。すぐに答えられないのは、晩御飯の内容を知らないからではなく、文脈が広すぎて思考の手がかりがないからです。また、何かあげたとしても、そこに深い根拠や理由があるのではなく、ただ食べたいからということになると思います。つまり、とく深まった考えをもつことはありません。たとえば、これで話し合いをしたとしても、自分の好きな食べものをそれぞれあげるだけになります。
 一方、「田舎からたくさん送ってきたじゃがいもの芽が出てきそうなのだけど、晩御飯にジャガイモを使った料理で何か食べたいものある?」と聞かれると、「肉じゃが」とか「ポテトサラダ」とか考えやすくなります。また、炭水化物ばかりにならないようにといった理由で、さらに料理を工夫したり他の一品を加えたりといった思考を展開しやすくなります。このように、ある文脈を設定すると、考えやすくなり思考が発展していく可能性があるわけです。そして、たとえば栄養バランスといった視点から話し合いをさせると、栄養についてのいろいろ考えが出て思考が深まるわけです。
その課題解決を通してどのような能力を育成しているのか、理科においては、自然をどのような見方・考え方でとらえるかを考慮する必要があります。理科の見方・考え方は、具体的には、次の資料を参考にしていただければと思います。
 >>> 理科における課題設定と科学的な見方・考え方
話し合いのあり方
 授業においては、じっくりと話し合うというより、お互いの知識や考えをうまく確認し合えるようにするのが先決です。日ごろの授業では確認の場を多くもち、時間をかけてじっくり話し合うというのはいつもではなく、必要に応じてでよいと思います。この確認においては、私の場合、立って隣や近くの人と対話し、終われば座るといった短時間で行うことをすすめています。
 最近授業を見ると話し合いに力を入れすぎて、自分で考察やまとめを書く時間がなくなり、教師があわてて今日のまとめを書く場面が見られます。最終的に子ども自身が考察したりまとめたりすることができないというのは、何のために授業をやっているのかわからなくなります。考察したりまとめたりする力が育たず、話し合いといった形式を守るためだけで教育の目的を失っているように思います。何のための教育なのか、何を育てようとしているのか疑問を感じます。話し合いのための授業をやっているだけで、どのような能力を育てようとしているのか見えてこないのです。最近のPISA調査で、再び読解力が低下し、自分の考えが書けていないといった問題が生じています。その原因の一つが話し合いに時間がとられすぎているといった証拠をもっているわけではありませんが、このような現場の状況を見ていると、低下する傾向に納得がいきます。
対話によって誤りからも考えを深めることができる
 対話の中で、確認を重視するのは、どのような考えでも、たとえそれが間違った考えでも、間違いと確認できるだけでも勉強になるからです。それは、私が開発した自由記述評価システム(>>>システムサイト >>>関係論文)を子どもに使ってもらっていた時に感じたことです。自由記述評価システムでは、マップにおいて、自分の解答に近い評価済の解答が近くに配置され、それを参考にして自分の解答を評価することができます。そのとき、自分の近くにある解答例と評価から自分が正当と判断できても、子どもは近くにある誤答を見ます。その誤答を見て「〇〇だから違うんだな」とか「〇〇についても書いていないからダメなんだ」といったように、たとえ正答していても誤答からたくさんのことを学ぶことがわかりました。もちろん自分が誤答の場合は正答から学びます。このことを通して、交流さえうまくいけば、正答であろうと誤答であろうとグループの中でも深い学びは成立することがわかりました。このことから、お互いに考えをしっかり聞く、またしっかり話すことが深い学びになるということを実感しています。したがって、子どもには、相手のためにしっかり聞くこと、そしてしっかり話すことが必要であり、それが思いやりであることを指導する必要があると思います。これらができることによって、じっくりと話し合うことができるようになると考えています。
授業を評価する視点
 話し合いをすることが強調されているため、話し合いをすればよい授業であると評価する人がいます。話し合いも含まれているような典型的によいと思われる授業展開を想定し、その視点から自分の授業計画について見直すことは良いことだと思います。しかし、授業内容によっては、確認程度の交流でよかったり、教師がおもに説明しなければならなかったりする授業もあると思います。要するにその授業では子どもにどのような能力をつけようとしているのかが重要で、そのための課題、そのための問題解決の方法や授業形態を考える必要があります。形式的に型にはまった授業展開を視点として、授業の善し悪しを評価するのは不適切であるといえます。子どもに意味のない校則を押し付けて、それを守らせることだけを考えている教育に近いといえます。今日の授業で求めているその教科の見方・考え方は何であり、その視点から子どもが深まっているかどうか、授業を見直す力が教師には必要になります。授業形式だけをチェックして指導するのはある意味では簡単です。しかし、授業を評価し改善する力が育つとは思いません。そのような視点でしか授業を評価しなくなると、教師を指導する立場の人が育たなくなってくると思います。

専門性の枠にこだわらない

専門についてのタイプ分けや位置付けに問題がある
 「なぜ理科の先生が,音楽のこともやっているのですか」と聞かれることがありますが,「音楽をやっている人でも,草花を育てたり観察したりしている人もいるでしょ」と答えています。そもそもこのような質問をするような観点でものごとをとらえるのに問題があると感じています。
 中学校においては,他の教科の授業について教師はあまりコメントしないというか,自分にはできないといった考えをもつことが多くあります。これは,日本の教育的文化の影響があると思います。日本では,理数が好きだから理科系とか,国語や英語,社会が得意そうだから文化系,または消去法で,理数ができないので文化系とか,国語が苦手だから理科系とか,すぐに型にはめて考えます。この枠組みで,得意なことと苦手なことを勝手に決めつけて,本来もっている資質や伸びる可能性のある能力,そして必要になってくる能力を育てることを潰してしまっているといえます。また,理科系なのだから〇〇はできなくても良いだろうとか,文化系なので〇〇はやっていませんといった言い訳ができる環境をつくっています。このように,「○○の専門家である,○○の専門家は○○ができない,苦手である」といった文化を作り上げています。そして,専門性を付与することにより,関係ないことには口出しできないような構造ができているといえます。
得意とする能力を伸ばすとともに,いろいろな能力を伸ばすことが必要である
 教育において,子供には,「自分は〇○について,すぐれた能力がある」といったことだけを自覚させるようにし,それを伸ばしていくように考えたのでよいと思います。そして,その能力を生かすためには,その能力だけでなくその他のいろいろな能力も活性化するとよいことを伝えればよいといえます。何か得意なことや興味があることがあり,その能力を伸ばすことにより,アイデンティティの確立をしてほしいと思います。一方,何でも一応にでき,いろいろなことに興味を示すが,すぐに飽きて特に何かができるわけではないといった没個性化するのは良くないといえます。図1aに示したように,何かしっかりできることがあり,それを中心にその他の能力が基盤になり支えになっていることで,その能力がよりよく発揮できるようにするとよいといえます。図1bのように,しっかりできることはあるが,細く特化しているのでは,不安定でその能力を十分に発揮できないことがあると思います。特化した能力は,脳のある特定のところを中心に活性化させていると思われますが,その他の脳の部分も活用できればその能力をより発揮できるといえます。日本の型にはめた教育では,図1bのような人間を育成しているように思います。
 脳科学の研究においては,脳の活性している部位を血流から明らかにするfMRIを用いた研究が行われています。たとえば将棋のプロが将棋を指すとき,いろいろな手を考え最適なものを選んでおり,論理的に考えていると思われます。当然のことながら,fMRIで分析しても論理的思考をつかさどると考えられる大脳皮質を活性化させています。しかし,プロでも上級になると,脳の中心のほうに位置する大脳基底核も用いることが示されています(*田中)。これは,アマチュアの棋士にはほとんど見られません。大脳基底核は,従来,運動や感情などに関わりがあるとされてきました。つまり,上級のプロでは,あたりまえに使うような部分だけではなく,脳のいろいろな部分を使って考え判断しているということになります。脳の働きからいって,せっかくもっている働きをすべて活用したほうがよいにきまっています。中途半端にしか使っていないので,問題が解決できないといったこともあると思います。といっても脳のいろいろな働きをバラバラに使うのではなく,統合して活用するということが必要です。それを簡単にできる人はあまりいないのかもしれません。しかし,その方向で努力したり,教育したりすることも大切であるといえます。したがって,すぐに型にはめて,できることできないことを決めつけて,脳の一部しか使わないのはよくないといえます。自分の得意とする能力を伸ばすとともに,それ以外の能力も活用していくことを考える必要があります。
(*田中啓治:「直観をつかさどる脳の神秘-将棋プロ棋士に見られる大脳基底核の特異な動き」RIKEN NEWS,No.358 April 2011)
その分野の専門家でなくても遠慮する必要はない,役立つ情報は提供できる
 その専門家でないからその能力が全然ないというわけではないと思います。その人が何らかの専門性をもっていれば,それに特化した能力をもっており,その能力に関連する何らかの能力ももっていると思います。したがって,たとえば自分の教科の専門でなくても教育的なコメントはどんどんしたほうがよいと思います。また,専門にこだわって遠慮する必要がないもう一つの理由は,教育者は,知識や思考,イメージ,理解という言葉をよく使っていますが,それをしっかりと定義して説明できる人はどれくらいいるでしょうか。その点からいえば,ほとんど同じレベルの集まりのような気がします。脳科学,とくに認知科学者は,知識や思考がどのようなものかをよく考えています。また,人工知能の研究者の中には,人工知能を作ることを通して知るという研究をしている人がいます。そのような研究者のほうが,知識や思考,人間の感情,さらに人間に関する哲学をもっている人が多いといえます。一方,学校教育に関わる研究者は,この実践はどうだったとか,何を使えば良いとか,外国ではこう考えてこんなことをやっているといったコメントが多いように思います。そのような研究が決して悪いわけではありませんが,知識や思考といった人間の本質的な側面の研究がもっとあってもよいと思います。知識や思考について研究している脳科学者に比べると,教育に携わっている人は,恥ずかしくなるくらい考えていない人が多いのが実情です。
  理科の先生だからといって,科学的思考がどのようなものかをしっかり説明できる人がどれくらいいるでしょうか。また,科学的思考と論理的思考がどう違うのか答えられる人はどれくらいいるでしょうか。国語の先生が,なぜ人間は言葉を話せるようになるのか,特に文法を意識せずに話せるのはなぜなのか,文章を理解するというのはどういうことなのか,説明できるでしょうか。音楽で楽器を演奏できる技能はどのように身についていくのか,どのような手順で行うのがよいのかなど,根拠を持った説明ができるでしょうか。また,どの教科でもよいですが,理解するということは脳のどのような働きで感じることができるのでしょうか,どうすれば理解しやすくなるのか説明できるでしょうか。
 子ども達には,授業において根拠や理由を求めることが多くなっていますが,教員においてもこのような教育に関わる根拠や理由を説明できるように努力していく必要があると思います。根拠をきちっと説明できない情報に振り回されすぎていないでしょうか。たとえば,人工知能の発達で社会は変わってくるのは確かですが,人工知能のことをよく知らないのに,大げさな社会の変わり方や危機感を訴えるような教育者がいます。実際に人工知能を開発している人は,人工知能という言葉をあまり使いたがりません。単なる思考ツールですよということをよく聞きます。何かすごいものを創造してくれるようなイメージをもたれても,そこまでは研究が進んでいないという人が多いといえます。
能力の育成の観点から,専門以外のいろいろな人の情報も大切になる
 教員においては,これまでの経験から何らかの手ごたえを感じているとは思いますが,かたくなに自分の教育方法を変えない教員がいます。また,自分たちが学んだ方法が,正しい学び方であるといった根拠のない自信をもつ人もいます。この単元はこのように学習すればよいというだけでは,育てる能力が明確ではありません。その方法が適切であるといった根拠はどこにもありません。一方では,新しい物好きで,〇〇法や○○ツールなどが紹介されるとすぐに飛びつく教員もいます。新しい教育機器が入ると効果もわからずに何でも使えば良いと考える人もいます。教育的な目的や教育的な効果について,根拠を明確にして用いなければ意味がないといえます。
 現代の人工知能においては,ある側面については人間の能力に等しいか,それを超えたものがあります。とくに画像処理については最近発展しています。ところが,画像処理を得意としているシステムが,推論を要する処理ができるかというと十分にはできません。このようにある側面に特化した人工知能が発達してきており,これは弱いAIとよばれています。人間のように何でも総合的にでき,子供に人気のあるネコ型ロボットのような人工知能は,強いAIといわれます。強いAIはまだまだ作ることができません。残念ながらいろいろな弱いAIを集めても強いAIを作成することができません。たとえで,いくら飛行機の性能を上げても月までは飛べないのと同じだいわれます。弱いAIと強いAIは,それくらい根本的に異なります。
 このように能力全体を統合するものを作成するのは難しく,レベルが全く違うといえます。見方を変えれば,強いAIのような能力は,能力を簡単に分割してとらえることができないといえます。そう考えると,人間の能力については,教科において特定の能力が育成され,それらがどう束ねられて総合的な能力となり,アイデンティティが形成されるのかという説明も難しいといえます。少なくともいえるのは,ある特定の能力を育成しているときにおいても,人間は全体の整合性を保つ形で矛盾なくそれらを位置づけ,能力を形成しているといえます。そうであれば,特定の能力だけに着目してその他を無駄のようにして省こくのではなく,使えるものはどんどん使うほうがよいと考えられます。したがって,特化してその能力を育成することは必要ですが,そのために理科系や文科系といったように,教育者の都合で勝手に枠を作り,能力の育成を制限するようなやり方はふさわしくないといえます。
統合した能力を分割できないことを考えると,いくつかの観点から能力の評価が行われますが,各観点の評価を総合したからといって,全体的な能力が評価されているとはいえないことになります。また,総合的な学習においては,いろいろな能力が育成されるだろうということで,何でも無目的に探究させれば能力が育つというわけでもありません。やはり,計画した総合的な学習の中で,育成されるいくつかの能力に着目しながら,探究的な活動を通して,全体の能力を活用させるように考える必要があるといえます。
 特化した能力を発揮しながら,能力が統合化される必要があります。したがって,その教科の専門家だけではなく,いろいろな教科の専門家からのコメントや考え方は大切といえます。脳科学の立場から,知識や思考,理解について研究している人にとっては,教科の詳しい内容はわからなくてもその側面から能力の育成についてはコメントができます。例えば,絶対音感どころか相対音感すらなく,チューナーがなければ,楽器の音も合わせられない,楽譜の記号的な意味は分かるが,楽譜通りにリズムがうまく刻めない人がいるとします。そのため,直接音楽に関わる楽器や楽譜,歌唱については,十分な指導ができないかもしれません。しかし,音楽を対象とした教育については,脳の働きからコメントできることもあるし,コメントしても差し支えないといえます。

昔のコンピュータ

大型コンピュータと8ビットコンピュータの時代
 始めて研究にコンピュータを用いたのは,大学院M1の時でした。いわゆる大型コンピュータと呼ばれるもので,大学には日立のHITAC(ハイタック)がありました。コンピュータ本体は,冷暖房完備のところで管理され見たことはありませんでしたが・・・。当時,研究室のプロジェクトで,4000人の子どもとその親にアンケート調査をしていてそれを分析していました。統計パッケージのSPSSを用いて基礎的な統計分析や因子分析を行っていました。SPSSを動かすためのプログラムを先輩がカードにパンチして,それを読み取り機に通すのを意味も分からずいわれるがままやっていました。大きなラインプリンターとそこから出力される印字の音に迫力を感じ,研究をしているなあという気分に浸っていましたが,もちろんこれは大きな勘違いでした。データのバックアップのためのフロッピーディスク(記録媒体)は8インチでした。目の前に持つと顔が隠れるほどの大きさでした。しかも128Kバイトかその倍くらいの容量でした。先ほどのアンケートのデータを保存するのに4枚くらい使っていたと思います。M1の終わりのころに,研究室では米国との共同研究で,子どもの論理的思考力とプロセススキルズを調べる調査を行うことになりました。そのとき,米国の方から同じ統計パッケージで分析したいので,できればSASという統計パッケージを使ってほしいといってきました。早速,大学の情報処理センターに問い合わせたところ,そのパッケージがあるということで,SPSSに変えてそれを使用することになりました。しかし,当然のことながら誰もSASの使い方がわかりません。そこで,SPSSの時にはわけがわからなかったので,私がSASを勉強して分析することを申し出ました。ところが,マニュアルは分厚く英語でかなりとまどってしまいました。情報処理センターに問い合わせると,基本的な利用方法を日本語で解説したものがあるということで見せてもらいました。その解説書は,「金沢大学の情報処理センター」が出しているものでした。まさか5年後に,その大学の教育学部に勤めることになるとは思ってもいませんでした。これを用いて勉強し,SASの動かし方がわかるようになりました。やっと,自分の力で研究できるようになった気分でした。このころになると,TSSといってカードではなく端末からプログラムを実行するようになっていました。私の研究は,子どもの自然認識に関する調査が主でしたので,大学院生活5年間,この統計パッケージには大変世話になることになりました。その間,大型コンピュータの処理速度は上がっていきましたが,基本的な操作はいっしょでした。
 大学院M1のときは,大型コンピュータの利用に並行して,パーソナルコンピュータ(富士通FM8)が研究室に入ってきました。今,考えれば,何ができるのだろうといったレベルのものです。記憶装置は,後には5インチのフロッピーディスクになりますが,当初はテープレコーダを用いていました。BASICでプログラムが組め,最初にプログラムしたのは,For~Nextを用いた繰り返し演算だったと思います。自分でプログラムが組めたときは,本当に感動しました。簡単な演算は大型を用いずにこれを用いたり,分析結果の棒グラフを書かせるプログラムを作成し,書かせたりしました。学会の発表資料も手書きの時代で,グラフを書くのは大変でしたが,これを用いるようになって楽になり,研究内容はともかく,見栄えがするようになりました。その後,漢字ロムを埋め込んで,漢字が出るようになりました。これをワープロとして用い,先ほどの米国との共同研究における日本語の調査問題を作成しました。研究室において,最初にコンピュータで漢字を用いて調査問題を作成したのがこれだったと思います。しかし,今考えるとひどいもので,一文字打つごとに数秒間スクロールしていたような気がします。プリンターも性能がよくないので,印字のドットが目立ち,画数の多い漢字は,穴がつぶれていました。子どもが漢字が読めるように,さすがにルビは手で書いていたと思います。その後,研究室ではワープロとしてはワープロ専用機が購入されました。また,大学院の4年ころでしょうか,16ビットだったと思いますがIBMのパソコンが入り,それ用のアプリケーションも用いるようになりました。ワープロなどの専用機に近い動きをしました。表計算もマイクロソフトのマルチプランが入っていました。しかし,現代のExcelに比べれば,並び替えなどで時間がかかったり,できそうなことができなかったり,何か扱いにくかった印象があります。
NE98時代
 大学院5年間を終えて,金沢大学に赴任してきたときに,まず,研究費で買ったのはコンピュータでした。やっと自分個人が使えるコンピュータが手に入ったといった感じでした。今よりもかなり高いものでした。ソフトが充実しているということで,NEC98を買いました。10MHz程度だったと思います。現代はGHzの時代なので,それだけでも数百倍遅いということになります。5インチのフロッピーディスク用ドライブが2つあり,1つはアプリケーション,一つはデータなどの保存用としておもに使いました。フロッピーディスク(約1Mバイト)にアプリケーションが入っていたわけですから,今考えればコンパクトなアプリケーションでした。
 当時,NECのパソコンのOSはマイクロソフトのMS-DOSでしたが,自社独自の部分がありました。そのため,おもしろいソフトがのちに継承されにくくなったのが残念です。しばらくして,LISPでプログラムが組めるソフトを買い,プロダクションシステムで子どもの認識過程を表現したりしました。この時代には,本当に面白いソフトがあったと思います。ニューラルネットワークのソフトをはじめて買ったのもNECの機種で動くソフトでした。ソフトの値段は,当時もう一台コンピュータが買えるほどでした。ニューラルネットワークのソフトで1人の子どもの分析を行うのに,数時間演算しっぱなしということになりました。これでは研究にならないので,このソフトだけのために,並列処理を行えるアクセラレータを購入しました。これももう一台コンピュータが買える金額でした。
 業者からは,変なものばかり買っているといわれ,一般的なソフトや周辺機器,たとえば,ハードディスクなどを買うようにすすめられました。しかし,購入しても今で言うマルチタスク(複数のソフトを同時に利用)ができない時代で,あまり意味を感じず,それよりもかえってトラブルが多くなることがいやで,あまり周辺機器を充実させませんでした。1台のコンピュータを充実させるよりも,金沢大学に赴任して3年目くらいからは,2台目のコンピュータを購入し,同時に2台異なるアプリケーションを用いて研究をしていました。コンピュータがマルチタスクできないので,1つのPCで出た結果をもう一つのPCで異なるソフトを用いて処理をするといったように,2台必要だったわけです。その後,LANが整備されてきて,メールもできるようになりましたが,今のようにつなげっぱなしでは他のソフトが使えませんので,1日に1回メールを確認する程度でした。今と違って,メールを使っている人は少なく,共同研究関係のメールが3日に1度くる程度で,のんびりしたものでした。やや急ぎの用では,電話で話すことが多かったと思います。結局,Windows95がでるまで,ハードディスクもつけず過ごしました。ニューラルネットワークで研究をしていると,ものすごいワークステーションが研究室に置いてあってといった勘違いをする人もいました。学会である大学の院生から質問され,現状を話すと「そんな状況で研究ができるんですか」と半ば呆れた感じでいわれたのを覚えています。
Windows95・98時代
 Windows95については,前々からうわさを聞いていて,マルチタスクができることで,それがでるまでずっとコンピュータを買い変えるのを控えていました。さすがに限界にさしかかったころようやく販売され,搭載されたコンピュータを買いました。最初のWindowsは,これまでのNEC98用のソフトの活用を考え,NECにしました。その後,NECの独自路線の撤退で,98時代のソフトが使えなくなってしまいました。文字や図,写真も取り込めて便利になりましたが,当初は,統合ソフトのできはまだまだといったところで,よくフリーズしていました。実際に落ち着いてマルチタスクができるようになったのは1998年に発売されたWindows98からでしょうか。
 マルチタスクによりLANはそのままつなげっぱなしで,インターネットによる情報の収集も容易になってきました。添付ファイルも送りやすくなり,電子メールによる共同研究が容易になってきました。一方で,いらないメールが多くなったのも事実です。Windows98のころには,コンピュータでビデオも扱うようになりました。しかし,容量の関係でビデオファイルをそのまま取り込んで編集するのではなく,エンコーダーを用いてMPEG1に圧縮したものを取り込んでいました。単に,切り貼りの編集でしたらこれで十分でした。大学の理科教育関係の授業で,編集した小・中学校の理科授業を見せられるようになりました。授業といえば,プレゼンテーションソフトを用いて,説明をするようになったのもこのころです。
WindowsXP時代
 2001年に発売されたWindowsXPになってくると,ハードディスクも大容量の時代になり,ビデオの編集を容易に行えるようになりました。とくに,子どものプライバシー保護のため,容易にモザイクなどをかけることもできるようになりました。コンピュータの処理速度もギガレベルになり,あまりフリーズすることがなくなりました。Windows98からWindowsXPへ移るころには,統計ソフトAmosによる共分散構造分析を行うようになりました。考えてみれば,最初に用いたのは大型コンピュータでしたが,それよりもはるかに性能のよいコンピュータを,パーソナルコンピュータとして用いるようになったといえます。これで研究が進まなければ,それを使っている私自身の問題だといえるでしょう。授業もプレゼンテーションで多くの具体的な映像を用いて行うようになりました。また,Windows XPはTablet PC Editionがありました。当時さっそくTablet PCを購入し,大講義室では黒板を使わず,その場で手書きした内容をプロジェクターに投影しました。学生のほうを向いて書きながら話ができることと,字も大きく書けるので学生はどの席からでも見えやすくなったと思います。
Windows Vista 時代
 2007年の1月にはWindows VistaのPCが発売されていたと思います。その年の3月には,Vista搭載のノートPCを購入しました。Vistaを利用したかったからではなく,これまで使っていたノートPCがもう限界だったので買い替えようと思った時期がたまたま重なっただけでした。ハード的には処理速度も速くメモリもめいっぱい搭載したノートを買ったつもりですが,Vistaの最初の感想は,立ち上がりが遅いということでした。ただ,一度立ち上がれば,XPより安定している感じを受けました。また,スリープ状態からの復帰も速いと感じました。ガジェットは,機能として便利がよいと思いました。マニュアル的な設定の変更は,どこに何があるのかわかりづらかったですが,これも慣れ次第でした。自分で設定を変える必要のない人には,かえって便利がよくなったかもしれません。このころに,自己組織化マップの計算に時間がかかる処理をすることが多くなり,Vista搭載のワークステーションを購入しました。
その後
 その後Window7,Windows8,Windows10というようにバージョンがアップされました。それぞれ一長一短を感じながら利用してきました。2011年にはサーバーを購入し,開発したシステムの運用を行うようになりました。当時のサーバーのOSは,Windows Server 2008 R2でした。現在はWindows Server 2019にバージョンアップしています。

人工知能

人工知能
 とくにディープラーニングによって,第3次の人工知能のブームが起きました。内閣府ではSociety5.0ということで,人工知能によって大きく変革を迎える社会に対応することを求めています。人工知能の発展によって社会は変わりますが,Society5.0で言われているほど,あるいは期待されるほど,大きく変わるでしょうか。Society5.0では,かなりの部分人工知能の判断に任せてしまうような社会が考えられています。人間がそこまで人工知能に判断を預けてしまうような時代が来るのでしょうか,また,預けても大丈夫なのでしょうか。
 金沢大学ジュニアドクター育成塾(小学校5年生から中学校3年生を対象とした科学講座)で,私がよく話すのは,人間に近い人工知能はどのようにふるまうかということです。ここでも書いているように特化型AIではなくアニメのネコ型ロボットのような汎用AIです。特化型AIと汎用AIの大きな違いを説明するのに例によくあげるのは,汎用AIはうそをつくことができるということです。
 たとえば汎用AIでできたアンドロイドがいるとします。自分が仕えてきた主人が,病気になり病院にいるとします。主人の病状がかなり悪くなりアンドロイドがお見舞いにいったとします。アンドロイドは,持ち前の画像認識や病状データを分析し,客観的に評価をくだし,「調子悪そうですね,明日にでも危ないのではないですか」といったとします。しかし,ことが求められていることでしょうか。データ的にはそうだとしても,「大変だと聞いたのですが,思ったよりも顔色は良いですね,早く元気になってください」ということが求められるのではないでしょうか。つまり何でもデータ的に正しい結果を出せばよいのではなく,状況を把握し人間の心まで理解して反応することが求められるといえます。その結果,データの結果とは異なるうそをつくということになります。この状況の把握は,人工知能の苦手とするところです。また,人間の心は客観的に表現できるかということも問題になります。ある人にとっては良いことでも他の人にとっては良いとはいえない場合があります。人間の心を満たす絶対的な基準がない限り判断できないことになります。私にとってあるいは,日本人にとって良いと判断されることでも,自分の行ったことのないアフリカのある国の中でも,それは良いといえるのかどうかということです。
 所詮現代の人工知能の判断の多くは,大量のデータについて人間が位置付けたもの,処理したものなどをもとに,特徴量を検出し情報のパターン化を行います。そして,入力された情報をそのパターンに位置付けて,過去にうまくいったことなどをもとに,適切なデータを拾って対処するというものです。まったく今まで人間が判断してこなかったことを,適切に判断してくれるかどうかはわからないといえます。人工知能と名がつけば,人間より優れていると日本人は一般的に考えやすいと思います。その言葉を信奉して,まったく根拠のないものに社会的判断を委ねるわけにはいかないと思います。汎用AIはうそをつくこともあるわけです。人工知能に何が真実か,あるいは何が人間に幸せかの判断を委ねられるかといえます。そのようなことも考えず人工知能を信奉し,世の中を変える,あるいは世の中が変わるというのは,性急過ぎるように思われます。

全体と部分

部分の組み合わせの限界
 このサイトの中心となる課題は,部分と全体との調和をいかにするかといえます。これまで,自然認識についての研究をしてきました。当初は,自然認識のプロセスをデータ的な知識とそれを処理する論理といった要素に分け,それを組み立てることによって自然認識のモデルを構築して解明を試みてきました。当時は,第5世代のコンピュータということで人工知能の開発が盛り上がり,その影響もあったと思います。しかし,当時,期待する人工知能の開発はできませんでした。私も子どもの自然認識についてモデルに当てはめて分析していました。そこでは,うまく説明できる部分はありましたが,説明できないことのほうが多くあり限界を感じました。要素に分解するあるいは部分を単にまとめて全体を作っても,うまく子どもの自然認識の状態を表現できなかったということになります。このようなことは生物にも当てはまります。単に細胞さえ集めれば,一つの個体ができるわけではありません。細胞の集まりから器官といった新たなはたらきが生じ,それらが集まって個体としての全体的なはたらきがうまく機能しています。細胞だけを観察しても個体を理解できないのと同じであると思います。このように生物では部分と全体がうまくかみあって調和してはたらいているといえます。
全体についての表現の限界
 自然認識の研究について,ニューラルネットワークによって複数の要因や条件を同時に組み込みながら,子どもの認識結果に対応するモデルをこれまでよりも表現できるようになりました。しかし,要因などはネットワークが全体に関係しており,各要因がどう絡んでいるのか解釈するのが難しくなりました。特徴量検出としてどのようなパターンやイメージをもっているかをある程度分析できましたが,各要因がどう関連するか,どのような論理なのかについての解釈が難しくなりました。人間の表現に近づけば近づくほど解釈が困難になってくるような感じです。現在,人工知能の開発においてディープラーニングが注目されています。特化した状況では人間の処理に近いか,それ以上の処理ができるようになってきています。そのシステムの構築においては,ネットワークに付加するパラメータの設定を工夫して効果的な処理が行えるよう工夫していますが,そのパラメータは設定してみないとわからないということもあります。つまり,論理的な根拠がないということです。開発者は自分たちを揶揄して「黒魔術」の世界だといっているくらいです。このように,なぜうまくいくのか説明がつかなくなってくるということは,人間のようにふるまえるものができても,そのモデルをもとにどうしてそのように人間は認識しているのか説明ができないということになります。私自身もそのような問題に直面しています。このような状況に陥ると,量子力学において位置と運動量に関する不確定性原理で,両者を一度に確定できないようなことを思い出してしまいます。
教育における部分と全体
 教育において,教科の学習においては,教科の見方・考え方といった枠組みで,対象や問題をとらえます。このことによって育成される能力は,どれだけ他に通じる汎用性があるでしょうか。もし,あらゆることに通じるのであれば,いろいろな教科は必要なく一つの教科の学習で事足りることになります。いろいろな教科を学ぶ必要性があるということは,その教科でしか培えない能力があり,しかもそれはいろいろな状況で活用できる汎用性があるとは限らないということがいえます。そして,それらを通して一人の人間の能力を育成するわけですが,教科で培った各能力が,どのようにして一個人の統合した能力になるのか,それとも統合している能力と思われているものは存在しないのかといったことが問題になります。これも部分と全体との問題です。
 能力が統合される機構が明らかになれば,汎用人工知能の作成に参考になるといえます。しかし,人間の認識や思考は,一般的に通じるような論理もあるようですが状況依存的のところが多く,一般的な能力の存在とその形成過程は,今後も研究が必要になるといえます。同じようなことで,教科教育学には,各教科をまとめていく,あるいは共通性から教科教育学を考えていく「通教科教育学」の考え方があります。この各教科教育の枠組みを統合するような通教科教育学の考え方は,教科教育学といえるのかといった問題もありますが,一般的な能力を考えていくうえでは,考え方の一つとして必要になる可能性があります。
 >>>>「教科教育学の研究課題と今後の方向性」を参照
特化した能力と総合的な能
 人間の能力においても,数式を得意としているとか,絵を描くのが得意であるとか,すべて得意というよりある能力を得意としている人が多いといえます。この得意としている能力だけを伸ばしていくようにすればよいのか,それとも他の能力も伸ばすことによってその特化した能力もより伸ばすことができるのか,このように特化した能力と全体の能力の関係も部分と全体の問題といえます。
 将棋をさす時に,アマチュアの棋士とプロの棋士を比べると,脳の利用部位が異なることがいわれています。プロの棋士は一般的に論理的処理とする部位だけではない部位を用いていることが明らかにされています(*田中2011)。その部位は直観において用いるという解釈もされています。このことは,プロの棋士においては脳のいろいろな部分を使っているということを示すものであるといえます。
 問題解決において,一般的に必要とされる処理の部位を用いることは当然ですが,それだけでなくていろいろな部位が関係している可能性があるといえます。したがって,特化した部位だけでなく,いろいろな脳の部位も活性化できるようにしておくことは,未知の問題解決において必要になってくると思われます。日本では,すぐに理系と文系に分け,あまり必要でないと思われる科目を勉強しないことも多くあります。理系と文系といった,あまり明確な分け方をする必要はないと思います。また,中学生くらいは,いろいろな脳の部位を活用しておくべきだと思います。国の学力調査で対象とされる科目だけでなく,とくに芸術分野の学習は脳の活性化の上でも大切であると思います。
*田中啓治:「直観をつかさどる脳の神秘-将棋プロ棋士に見られる大脳基底核の特異な動き」RIKEN NEWS,No.358 April 2011

3Dプリンターで作成したギターのネック

ギターのネック
 このサイトでも指摘しているように,自分の専門や得意としている領域をどんどん伸ばしていくことは大切ですが,いろいろな分野にも関心を示し,脳を活性化しておく必要はあると思います。下の図は,3Dのソフトでギターのネックの一部(4フレット分)を設計したものです。大きさもほぼ学校で用いているサイズで,3Dプリンターで作成しています。空洞で上と下に四角い突起があり,そこに弦のかわりにタコ糸や輪ゴムをかけます。音を出すわけではないですが,基本的なコードを押さえる練習のために用いるものです(4フレットあれば基本コードは押さえられます)。理科の先生が何を作っているんだということになりますが。音楽の時間,生徒の人数分のギターがない場合があります。二人に1台の場合,一人が練習していると一人は見ているだけになります。その時間がもったいないということになります。練習不足で実際に音がうまく出せないと授業が面白くないですし,授業の目的も達成できません。そのために設計し作ることにしました。実際に使ってもらって,生徒にも人気があります。壊れた場合は,また作りますが「ジャガイモの繊維のプラスチックなので,そのまま燃えるゴミに」と音楽の先生に言っています。そのことを生徒にも伝えたということで,生徒たちはこの道具を「ジャガイモ」と呼ぶようになりました。使い勝手を見るために授業を参観したとき,最後に音楽の先生が「作った先生に何か質問がありますか」,ということで紹介してくれました。出された質問は「ヨウ素液で青紫色になるんですか?」,「いえ,繊維ででんぷんはないので,青紫にはなりません」など,ほとんど理科的な質問でした。
 図の3Dプリンター用ファイルがダウンロードできます
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