10/8の授業で紹介されたメールやりとり全文
10・4 高機能広汎性発達障害フォーラムから
発達「ことばの問題からみえてくるもの:言語聴覚士」から
障教 言・聴 2年 412 吉江 祥
軽度発達障害の児童生徒に関しては、可能な限り通常学級に在籍し、必要な時間のみ特別支援教室の場で指導を受けていくという体制が望ましいのではないかと思っていた。しかし、健常児と障害児の両者を抱える普通学級のクラス運営は、障害児側が単にクラスの「お客さん」になってしまうという可能性も持ち合わせており、それが彼らにとっては非常に危険なことであると知った。また、思春期におけるグループ活動や職業準備教育・職場実習などの重要性という点から考えても、彼らを通常学級に入れられるなら入れるべき、といった自分の中に無意識のうちに形成されていた考えは、偏った思い込みに過ぎなかったように感じた。その上で、軽度発達障害をもつ児童生徒にとって、真に望まれる教育の場とはどういったものなのだろうか
軽度発達障害をもつ子どもの教育は、アメリカやイギリス、香港、台湾ではリソースルーム型の対応(つまりほとんどの時間を通常の学級ですごし、一日のうちの一部を個別指導や小人数指導)がメジャーな流れです。他の国はみてないからわかりません。ただ一部にLDだけの学校や自閉症専用の学校があります。イングランド中部の自閉症専用の学校でアスペルガー症候群の中学生たちと話したことがありますが、彼らはふつうの中学からかわってきて、ひじょうによかったといってました。また、ボストンの北にあるLD専門の学校では、通常の学校で不適応を起こしたLDの子どもを2,3年引き取って、勉強や対人関係でじしんがついたら戻すということをしているところもあります。 分離か統合かという問題は、実はどの障害でもとわれるべきものなのです。
吉江さんの「無意識」とはどんなものでしょうね。意識化してみてください。
フォーラムに参加して 障害児教育教員養成課程2年407 島田温子
1.「高機能広汎性発達障害の思春期の支援」
思春期とは誰もが悩む時期だと思う。自分という存在すら否定したくなることもあるだろう。高機能広汎性発達障害の人たちは、自分がほかの人と違うということで悩んだりするのだろうか。一般に健常者といわれている人でも他人と自分を比較して同じように悩みを抱えているだろうし、人は一人一人異なる存在だから悩みや心身にかかる負担の大きさは比べることはできないけれど、やはり障害者のほうが大きく大変なのだろうか。私がこの講演を聴いて心に残っていることが、「人生の潤いを持つこと」だ。一生涯の障害に対する支援や埋め合わせばかりを考えないで、楽しみを持つこと。当たり前のことだけれども、はっとした。私が親なら「障害を持った人が生きていくためには、ああしなければ、こうしなければ、こんなことができないからあのようにさせなければ」と、いかにして社会で生きていけるようにさせるかということを考えて押し付け、楽しみを持つ時間さえ与えてあげないような気がした。また、普通の子と同じように、家での仕事を持たせてあげることもしないかもしれないと思った。ほかの子同じように育てようと思っても、どこかで区別しそうだと思った。もうひとつ、『お客さん』にしないことが、本当に大切だと思った。「自分が何もしなくても、誰かがしてくれる」ということを学んでしまったら将来責任感の薄い人物になってしまう。やはり幼いときから就労を視野に入れ、先を見越した支援をしていく必要があると思った。
大井
ひとりの子どもに障害があるのであって、障害のことだけで人生を過ごす子どもがいるわけではないという、単純な事実が目に入らず、大人自身の満足(指導したい、治療したい、やさしくしたいなどなど)のために、障害のある子どもの人生を貧しくしたり、じゃましたりしている人が非常に多いのです。特にそれで金をもらっている医者や教師、なんとか士には、このパターンがウヨウヨいます。現実をみない、現実が見えないということは恐ろしいです。皆さんも、意識してそうならないようにしないと、10年たつとそうした困った大人の一人にならないと限りません。
2.パネルディスカッション
1人目の21歳の女性を子に持つ方の「親自身が何もしてやれなかった」という話を聞き、私が障害者の親なら「この子は障害者なのです。」と言えるだろうかと考えた。自分の子に障害があってほしいと思う人はいないだろう。
大井
これはアサハカ。障害をもつ子どもの親御さんには、子どもに障害があったおかげで、自分の人生が豊かになった、障害は忌むべきものではない、祝福すべきものだと感じているひとも珍しくありません。
しかしそうであった場合まず親がその子の障害を含めたすべてを認めてあげなければならない。社会の理解が得られないのなら子供と共に闘っていく覚悟を持たねばならないと思った。辻井先生もおっしゃっておられたが、社会や行政に対する当事者の働きかけが大切なのだ。また、軽度発達障害についての先生の理解や学校の対
応の仕方がとても大切だと思った。2人目の小学6年生の男の子を持つ方の、担任が変わるたびに子供の説明に行き、ようやく理解してもらったのが1月だったという話を聞き、どうしてそれほどまで時間がかかったのか疑問に思った。学校内でその子についての情報交換のようなものはあったはずだ。前の担任が何も伝えずに次の先生にバトンを渡しているはずがない。分散会で「教師の多くは何も知らない、知識のない人々で困る」といった意見があったが、教師の基礎知識不足が原因なのだろうか。
大井
簡単です。やらなくても学校の中で誰も困らないからです。今日の学校というしくみ(親方日の丸、出るくいは打たれる、ことなかれ、狭い視野、貧困な子ども観。これらをまとめて私は「こどもをバカにしていく学校というシステム」とよんでますが)の中では、世の中であたりまえでしょということに、感覚がどんどんマヒしていってるセンセイが多いです。どれだけ親や子どもが困っても、それを見ない・見えない人がたくさんいます。見えた人も何かしようとしません。しなくても首にもならないし、学校がつぶれるわけでもありません。なにかしようとする人がいても、周囲に遠慮してうやむや、それを押し切ってしたらツマハジキです。学校評価(イギリスでは年に50の学校が評価がわるくて廃止になってると、イギリスの大学の人が言ってました。なお、イギリスは学校設置の規制がゆるく、建物と教師がそろったら学校がすぐつくれるとのこと)が本格的に動いたら変わるかもしれません。
3.分散会(A 幼児期)
アスペルガーと診断された3歳の男の子を持つ親の話を聞き、アスペルガーであるのか、そうでないのかがわかりにくいという幼児期にどういった症状を基準に診断されるのか疑問に思った。自閉症の人たちに共通して見られる症状がアスペルガーの人たちにも表れるのだろうか。私は友人から、アスペルガーと診断された3歳の男の子と同じような行動をする5歳の男の子の話を聞いた(この場合3歳の男の子が母親の股間に興味を持つというもので、5歳の男の子が友人の下着を脱がそうとするというものです)。彼らの違いはいったい何なのだろうか。
あるいは5歳の男の子もアスペルガーであるのか。人が集まると必ず集団行動ができない子がいるが、そのような子はアスペルガーなのか。その境界線は一体どこなのか疑問に思った。幼児期の診断は本当に難しいのだと思った。その子の個性だといってしまえばそれまでのような気もするが、もしその子がアスペルガーであったのなら、両親や周りの身近な人々の対応や心構え、その子を取り巻く環境を整えてその子に合った支援をしてやる必要があると思った。
大井
診断は可能です。ただし表面的にあらわれた行動だけから判断すると間違います。アスペルガー症候群の診断は「洞察」なのです。幼児が大人や友人の局部に関心を持つのは当然のことです。それがないと人類は滅びます。性的成長のごくごくありふれた一こまです。アスペルガー症候群とそうでないグループを鑑別する基本的な違いは、自分が性的関心をいだいた他者の感情を了解できているか、ということです。
診断というのは高度に専門的な技能です。学問的素養と厳しい訓練、多くの経験を通して培われます。
が、この方面での日本の「専門家」はかなりいいかげんな人が多く、誤診やみすごしがあとをたちません。いい加減な「専門家」よりも、アスペの子どもの家族や支援者の方が、的確な判断ができるケースも珍しくありません。
幼稚園や学校現場で多くの子供たちを見なければならない先生は大変だろうが、一人一人目をか
け、異変にきづき、対応しなければならないと思った。 私には、知らないことが本当に多くあり、もっと勉強しなければならないと感じた。
大井
子どもが多いから先生は大変というのは耳ざわりのいい話ですが、私は疑ってます。皆さんのご両親や、あるいは団塊の世代は、50人学級、60人学級ですごしてきたはずです。アスペルガー症候群の人たちが、その中で大変な目にあったというデータはありません。日本のような教え方で少人数学級にしてしまうと、大人が子どもに過剰介入して、創造性や自発性を台無しにしてしまう危険性が高いです。子どもたちは自分たちでなんとかする能力を豊かに持っています。十羽一からげの教育のあり方を変えないで、手のかかる子どもがたくさんいるから少人数学級という発想では、手のかかる子どももそうでない子どももダメにしてしまうでしょう。
言語聴覚障害学総論 受講生の金澤晃代です。
> 10月4日のフォーラムに参加して感じたことを書きます。「アスペルガー症候群」という言葉を先週の授業で初めて聞きましたが、この講演を聞いて少しは理解できました。
> でもあくまで表面的な理解にとどまり、不明な点や疑問点がまだまだたくさんありま
> す。・アスペルガー症候群の子と、単なる性格としてわがままで協調性がない子との見
分けはつくのでしょうか。私は今までに何度か、小学生と一緒に活動したことがありますが、自分勝手で集団行動の苦手な子は何人かいました。その子たちはアスペだったのでしょうか。
「訓練された一定上の専門家、あるいは彼らと親しく付き合っている家族や支援者なら
すぐに見分けはつきます。金沢さんがこれまで会った小学生についてはわかりません。統計上多くても発現率は1%ですから、そんなにはいません。他の理由で「自分勝手」に見える子どもたちである可能性が高いです」
・アスペの子には、小学校5年生くらいから就労ガイダンスを行うのが望ましいとい
> うお話でしたが、いくらなんでも早すぎるのではないかと思いました。小学生のお子さんを持つ保護
者の方には「まだ夢中になれるものを見つけたばかりで就職の話なんてとても・・・」と困惑されている方もいました。アスペの子に対して保護者やその他の教育者が就労の支援を行うことは必要不可欠だと思いますが、あまりに早くから周りの大人が将来のレールを敷いてしまうのは、その子のためにならないように思いました。
「辻井さんが言う早期からの就労への指導についてその正確な考えを私は知りませんので、なんともいえませんが、その場で質問すればよかったですね。こういう感想を後から聞いてもあまり意味がありません。また、金沢さんが思っている、あるいは保護者が思っている「就労準備」は、辻井さんが思っているのとまったくちがうのではないかと憶測します。その辺を確かめないで感想をもっても、これまたあまり意味がないですね。
なお、私の考えでも、早期の就労準備は必要と思います。アスペに限らず、小学校の
高学年くらいから、子どもたちは、「勤勉さ」を通した「自分らしい」技能の習得
や、仲間関係を通した自分たちだけの世界作りをはじめます。これは将来の社会的労
働に非常に重要な意味をもっています。また発展途上国の子どもたちは、9歳を超え
ると一人前の働き手として自立しています。日本でも昔「でっち」奉公に出された年
齢がこの辺です。金沢さんたちも、交友、クラブ、クラスの多様なかかわりを通して、汎用性の高い、社会的労働の基礎の部分を養ってきたはずです。 特にアスペの子どもたちは
1)仲間の間でのルール作りが苦手で、大人社会のルールにそって行動することが大変未熟です
2)また、人格的に未発達なままこの時期を迎えるため、配慮が必要です。
3)さらに、知的な水準や得意な分野の違いによって、どういう機会を与えてあげれば、職業生活に含まれる要素を準備する機会をもてるか、きめこまかい配慮が必要です。
4)単に趣味を楽しむだけのお遊びでは、以上のような機会は提供されません。
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> ・普通学級に入学してきたアスペの子に対する支援は市町村によってさまざまだと
いうことがわかりました。松任市は一人の障害児に対して一人の支援者が付くようなシステムが整っているそうです(T・Tなど)。地域による不公平をなくすためには、教員一人ひとりがアスペなど軽度発達障害について正しい知識と理解をもつことや、障害をもった子どもたちに適切な対処ができるように成長することが大切だと思いました。
「一人の障害をもつ子どもに、一人の大人がつくというしくみは、その大人が、クラス
の中で困っているたくさんのこどもたちに対応する中の1つの仕事として、障害をも
つこどもとつきあうようにしないと、大変危険です。障害をもつ子どもの自立をおせっかいな大人が邪魔し、まわりの子どもたちとの手間のかかる仲間作りの機会を台無しにしてしまう危険性が非常に高いです。一対一ではりついて、このような事態におちいらないですむ賢い大人はごく少数です。特にアスペのように社会性の障害をカバーしていかないといけないケースでは、1対1は最悪です。」
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> 言語・聴覚障害教育コース2年 金澤晃代