10歳から11歳の波乱を超えて:仲間及び母親とのコミュニケーションへの支援

 

1.10歳まで

 私がX君と初めて出会ったのは彼が5歳のときです。きっかけは「LDの疑いはないか?」というお母さんからのおたずねでした。大学のプレイルームで30分ほど遊んでいる様子を観察し、彼の示した言葉の巧みさと知性の発露から、いとも簡単にLDの可能性を否定したことを覚えています。普段なら面接にはもっと時間をかけ、いくつかの検査もし、当然のことで面接所見を文書に残すのですが、この時はなんと記録すらとっていませんでした。この判断はLDの有無については間違いではなく、そして別の面では完璧な失敗でした。彼の一時的な不登園やその後小学2年に小児科でADHDと診断されることになる行動特徴についてもお母さんからお伺いしておくべきでした。

 同じプレイルームを彼が再び訪れたのはそれから5年たった10歳の秋です。その夏休み明け、私は別の用件でたまたま彼の通う小学校を訪れ、同級生の些細な一言に切れて暴れるなどしょっちゅうトラブルを起こし、また授業中再々教室を出て行く5年生の男の子についての相談を受けました。その男の子こそX君でした。数週間後にプレイルームを訪れた彼の様子からアスペルガー症候群であることはすぐに見て取れました。前後して小児科での診断も変更になりました。

 4年生までのX君は、忘れ物が多く集団行動が取れないが、注意すればわかってくれ、友達にも「ごめん」を連発する気の優しい子だとお母さんには映っていました。ただ、入学したての頃はチャイムがなっても教室に戻ってこなかったり、いつの間にか教室からいなくなったりしていました。1学期の半ばまでそれは続いたそうです。担任に話しかけるが一方的、友達と一緒に遊べないなど気になる点があったもののX君自体はいつも楽しそうにしていました。2年生の2学期頃できないことがあるとひっくりかえって暴れたりすることがあり、3学期には宿題を忘れたと気づいたり友達に失敗を指摘されると隣の空き教室に出て行ったりしました。しかし、3年生は順調で同級生とドッジボールやサッカーを楽しむようになり、勉強も得意になり、4年生ではほとんどトラブルもなくなったそうです。5年生では学級委員に立候補したりクラスの仕事をすすんで引き受けたりなど意欲的な1学期でした。

2.10歳過ぎからの1年間

 転機は1学期の終わりにやってきました。家も近所で同じクラスの大の親友A君の冗談やからかいに突然過敏に反応して暴れるようになったのです。そのまま突入した夏休みは悲惨だったようです。というのもA君を含む、それまで毎日のように一緒に遊んでいたクラスが同じで家も近いやはり大の仲良しのB君、C君の3人と一緒に過ごす時間が一気に増えたからです。負けてもゲームの順番を変わらないなどX君の自分勝手な行動がきっかけだったようですが、彼に3人からの非難が集中したらしいです。夏休みがあけて仲良しとのトラブルは学校に持ち込まれました。担任の先生も驚くほどクラスで頻繁にトラブルが起きるようになったのです。他の3人のうそや冗談、からかいなどが理解できない、X君自身の言葉の選び方や使うタイミングが悪く思わぬ反撃にあう、授業で自分の思うようにできなかったり点数が悪かったりするとキレといった具合です。お母さんは荒れるX君のことばに耳を傾ける努力をされました。「俺はみんなと違って暴れたりするし、友達が無くなりそうで心配だ」「何で俺ばかりいやな目にあうだ」「俺は、あばれたくない、お母さん、俺の記憶を消してくれ」。悪夢で眠れない日々を送っていた彼が話したのは友達の悪口の意味が5年生の1学期までわからなかったこと、それが「わかる」ようになったこと、そのため何年も前に言われた悪口を急に思い出して友達を叩いてしまう、「つらい、暴れたくなかった」という後悔でした。平穏でいるときはX君と3人の友達は本当に仲良しだったのですが、もめ始めるとX君の被害感が急激に高まるということが繰り返されました。彼が外目にもつらそうだった時期は5年生の夏から6年生の1学期まで続きました。それはまるで止まない嵐に見舞われたかの様でした。お母さんにとっても、また本人自身にとってもあたかも不意打ちをくらったかのような出来事だったと思います。小学校時代を通じてほとんどの学年を担任することになった先生にとっても、それは低学年の頃のX君がみせた行動上の問題とは大きく異なっているようにみえたとのことでした。

3.波乱のさなかの仲間コミュニケーション支援

5年生の3学期から6年生の3学期まで子どもたち4人に2ヶ月に一度の割で大学に遊びに来てもらい、彼らの了承を得た上でその様子をビデオにとりました。その間、トラブルが生じている場面の会話のやり取りを文字転写して分析し、X君及びトラブルの相手の子どもを個別に、その場面を再生して見せた上でインタビューし、その2ヵ月半後に同じビデオを4人で見る機会を設けフィードバックを1回行い、さらに毎回遊んだ後の感想を4人それぞれに述べてもらい話し合いました。また、X君についての理解を助けるためにお母さんとのコミュニケーションについてビデオ分析を行いました。このほかA君、B君、C君のお母さんたちにX君のコミュニケーションの特徴及び彼らとX君のかかわりについて知らせました。子どもたちが口にした場合はX君についての不満を否定せず、よく話を聞くように依頼しました。

 トラブルのきっかけとなったX君の発話はプレイルームでの1時間の間に20回以上ありました。一例をあげると次のようなものでした。場面は数人の子どもが入れるボールプールにX君がつかっているとき、ボールプールの囲いにB君が誤ってぶつかりX君に怒るほどでもないごく軽い衝撃を与えたところです。

 X:何すんだばか、(小声でつぶやくように)ぶっ殺すぞ。

 A:ぶっ殺すやって

 X:うそ。

 B:おれにゆった

 X:ただの独り言だよ、ばかたれ

 B:Xを叩く

 下線部の発話がB君を怒らせてしまいました。X君に何を言いたかったのかインタビューしたところ、こういえばB君が怒らないようにできると思ったとのことでした。このときのX君は可笑しそうにわらいながらビデオを見ていました。同じ場面をB君にもみてもらいましたが、彼の言い分はX君が怒るほどぶつかったわけではなく、下線部でのX君は態度が悪いということでした。このようなX君の発話をめぐる行き違いはA君やC君との間でもしばしば見られました。X君のことばは意図を伝えるために適切に選択されていませんでした。中でも筆者自身がおどろいたのは次のような例です。

A君とふざけあい、互いにボールをぶつけあったり、押さえつけあったり、首をしめあったりしている場面の途中でX君は次のように話しました。この時A君はふざけているように見えましたが、X君はそれをやめたがっているようにみえました。「勘弁してくれよ」と半べそをかいていました。

A:Xじゃんけんしよう

X:あんた誰?

A:おれ、X

X:じゃあ、おれXっていうの?

A:ああん?

X:じゃあなんでXって呼んだの?

A:はあ?何、ばかじゃねえ

この場面のビデオテープを見せて一人ずつインタビューしたところ、A君はX君の下線部の発話をふざけていっているものと考え、自分もふざけたとこたえました。しかし、X君の真意は自分を押さえつけたりボールを投げつけたりするのを止めてほしいというものでした。驚いた筆者がAの立場でXにボールをぶつけたとして、それを止めてもらいたいときはなんと言うのか尋ねると、Xは「お名前はっていいます」と応えました。相手によって丁寧さは変わるものの、既知の相手の名前を聞くことでふざけあいの中止を求める点は2つの発話に共通です。

 インタビューから数週間後、ここにあげた例のようにことばの不適切な選択をきっかけとしてX君と友人たちとの間でトラブルが起きていることを彼らにフィードバックする機会をもちました。ところが案の定というべきかX君は、ビデオを再生した後に話し合いを始めようとした途端逃げるように部屋を出て行きました。別室で一人たたずんでいるX君に彼のいないところで友人たちとビデオを見て話し合ってもいいか許可をもらって、A君、B君、C君たちにX君の発話の意図が彼らの解釈したのと違っていることを上記のような例をいくつかあげて説明しました。

 3人は思うところがあったようです。それから1ヵ月後に大学にやってきた彼らはX君を強い口調で非難することはあまりみられなくなっていました。X君の不適切なふざけはそれまで3人の怒りをかっていたのですが、このとき3人は「Xそれくらいにしとけ」などと軽くいなすようになっていました。X君も「悪い、悪い」と素直に謝り、泣き叫んだり暴れたりはしませんでした。その回からビデオはなしで、遊んだ後にそれぞれの気持ちを話し合う時間を持つようにしました。これにはX君も不承不承でしょうが加わりました。当然そこでX君の言動についての批判がでてきましたが、3人はもう以前のような非難がましい言い方はしませんでした。それに対してX君は「介錯してくれ」とよくつかう手である「切腹」のまねをして許しを請いました。彼によれば戦国武士が切腹によって主君に詫びを入れれば許されるというのをまねているとのことでした。実際彼は3人の友達を「殿様」で自分は「家来」だと例えました(ちなみに筆者は「家老」とのことでした)。

 春休みがあけて6年生になった彼らのあいだで興味深い出来事があったことをX君のお母さんからうかがいました。他者からの非難にすぐ切れてしまうX君のために、3人の友達が悪口を言い続け、X君がそれに耐える練習をしたこと、15分我慢ができたとお母さんに報告したとのことでした。子どもたちの知恵と友愛に筆者は深く打たれました。

 他の同級生や下級生とのトラブルはあいかわらずだったものの、3人の友達とのそれは目に見えて減少したとのことでしたが、1学期の終わりにちょっとした誤解がもとで起きたトラブルが大きく発展しこじれてしまい、X君のお母さんは3人の友達に彼の物の感じ方や行動の仕方を説明しました。3人は今更わかりきったことを言うという反応だったようで、X君との間で起きた出来事をいろいろ思いだして盛り上がっていたとのことでした。しかし、その後X君へのピリピリした感じはなくなり、相変わらず4人の間で喧嘩はあったものの、以前のようにX君が反省するまでしつこくというやり方は影を潜め、むかついた事実を言うだけで終わったり、怒るのをこらえたり、X君に謝ってくれたりするようになったそうです。6年生の2学期は4人組のつきあいは続いているもののほとんどトラブルはなくなりました。そしてこの頃からX君は落ち着きを取り戻し、教室から出て行くこともなくなり学校行事でも活躍する元気な姿がまたみられるようになったとのことでした。

 3人の友達との関係は中学時代まで続き、X君の学校適応を支援してくれることになるのですが、本稿のテーマと直接関係しないので割愛します。

4.母親とのコミュニケーション支援

診断の変更に戸惑われるお母さんから助言を求められた筆者は、ともかく何を言われても驚かないでよく彼の話を聞き、説得しようとしないようにとお伝えしました。これはX君を追い詰めたり混乱させたりしないようにということと、彼の言い分や納得できなさ、悩み・つらさを受け入れ聞いてくれる身近な人を確保しておくためです。X君を支援するにはそれがまず大前提ですが、欲を言えば周囲の人とのコミュニケーションや感情交流について解説してあげたり指針を与えてあげたりできれば、さらに望ましいわけです。そこで筆者の方からお母さんとX君との会話のビデオ分析を提案しました。彼とのコミュニケーションでお母さんが何を伝えようとし、それがどう彼に伝わり、また伝わらないか、彼の言動をお母さんがどう理解し、あるいは理解していないかを明白にすることによって、X君には何を解説してあげる必要があるかが具体的につかめるからです。お母さんも丁度アスペルガーと診断されたX君に何をしてあげればいいか考え始められたところでした

お母さんは次のような場面をビデオにとってこられました。自宅の居間のテレビでアニメを見ているときに出てきた「しがない」という言葉の意味をX君がお母さんに聞いたところです。会話の中につぎのようなやりとりがありました。説明してくれたお母さんに対するX君の態度はあまりほめられたものではありませんでした。

X:(テレビを見ている)

母:わかってないでしょ、見たいでしょ、これ

X:ん?(テレビを見ながら)

母:テレビみたいだ。だから聞いてないでしょ。

X:(母をみて怒り)「聞いてるよ!」(テレビと母のあたりを見る)

母:だったら、しがない占い師ってどういう意味だった?

X:(母を見て)というわけで、びんぼう、たりない、たりない占い師(テレビを見る)

母:あはは、たりない占い師じゃない、とるにたりない、つまらないってこと。

 下線部の2つの発話でお母さんは「しがない」についての説明をX君が聞いたかどうか、理解できたかどうかを確かめたかったということでした。しかし筆者にはその意図の根底に、「人の話を聞くときはちゃんと私の方を見なさい」という気持ちがあるように見受けられました。お母さんは始めそのことを否定されましたが、それはX君に対するそうした感情を封印し「息子が私の方を見なかったり、聞いているかどうかわからない態度だったりするのは、障害なんだから仕方がない、だからせめてちゃんと聞いていたか確認だけしよう」と考えておられたからだったようです。分析のやり取りの中でご自分の素直な感情に目を向けること、それを正直に彼にわかりやすく伝えることを提案しました。たとえば「説明するからこっち向いてくれる?」というように。この分析についてのお母さんの感想は次のようでした。

大井先生の問いかけは、私があきらめて封印してきた感情だったので、混乱してしまったのです。頭が真っ白になりました。『どうしてあげたらいいかではなく、どうしてほしいか、ちゃんと説明しなきゃいけないだ』と。それからは大変でした。日本語教室に通いたいと思うくらい、自分が息子の何が気に入らなくて、何を期待して、わがままだと思っているのかという無意識の部分を掘り起こして、それを説明するという面倒な作業の日々がはじまりました。説明しはじめると、息子から『だって、お母さんは昔こう言ったじゃないか』とこちらが忘れているような、しかも場面の違うことを持ち出して来たり、『なんだ、最初から言ってよね』といわれたりして、『なるほど、こんなふうに、物事を処理してきたのか、それは大変なはずだ』と今まで理解できなかったわがままにしか見えなかった言動が腑に落ちるという、とても興味深い話を聞くことができました。そして、その部分がわかると、恐くて言えなかった要求がいえるようにもなりました。『お母さんは、こう思うからあなたにこうしてほしいと思うだけど、どう?』というふうに。『そんなことされたら、こんな気分になるだけど、お母さんをそんな気分にさせたくてしている?』などなど。やりとりや交渉がしやすくなり、苦しさから開放されて、前進しはじめた手応えをかんじました」。

 3ヵ月後の会話のビデオではお母さんが率直にわかりやすくX君に話しかけておられる姿が記録されていました。場面はX君の算数の宿題をお母さんが見ているところです。

母:(Xが書き込んでいるノートを見ながら)ふーん、よくわからん。

X:がーん。(左の方向を見る)

母:え?(子を見る)

X:ふん!(ノートに書く)

母:ははは、ちょっと待って、ちょっと待って(子の腕を軽く叩きながら)、どして?だってほんとにわかんないだもん。

X:ひでー(ドリルを見てかく)、ひでーなー。万福丸は(聞き取れない)

母:え?(子を見る)

X:ひどいなあ。(ノートに書きながら)

母:こっち向いて言ってくれる?

X:ひどい。(母を見てふくれる)

 万福丸とは近江の小谷城攻めの際に信長の家臣に処刑された浅井長政の嫡男で、母の言葉はそれほどひどいことだというX君独特の表現です。下線部でのお母さんの発話は3ヶ月前に比べ意図が明示的です。お母さんはこの後年に一度ほどビデオ分析を受けられ、X君の成長に応じて自分の対応を見直す試みを続けておいでです。

 

5.まとめ

波乱の一年間は、X君が他者の目に映った、友人たちのそれと大きく異なる不可思議な自己像を強烈に自覚し、また、他者のことばに激しく反応する制御困難な心が自分の内部でうごめいていることに直面させられた時期でした。その正体がアスペルガー症候群であることを彼はこの時期に知りました。6年になる春休みにアスペルガー症候群の少年の物語「ベンとふしぎな青いびん」(フープマン。あかね書房)をお母さんに薦められて自分が主人公と同じ特徴を持っていることに気づき、彼を悩ませているのがその特徴にあることをお母さんとの会話を通じて知って行きました。アスペルガー症候群をもつ天才的な人の存在や不幸な事件に彼は一喜一憂しましたが、6年生の2学期に親しいA君に自分の特徴を告白するなど、自分の中でそれを統合していく方向を向き始めています。波乱を乗り越えることを可能にしたものは、自分を受け止めてくれる友達をもつことができたことと、自分を見つめる作業を共にしてくれるお母さんの存在だったと思います。X君、お母さん、友達(とそのお母さんたち)の支え合いの輪の一端に、コミュニケーション支援の立場から加わることができたことは筆者の喜びとするところです。