1958年生まれ、名古屋市出身
1976年 東京都立大学人文学部入学。大学時代の指導教官は、
山住正己・坂元忠芳の両先生。
社会科教育法の非常勤講師だった本多公栄先生から紹介された
安井俊夫著『子どもと学ぶ歴史の授業』に感動して
社会科教師になろうと決意する。
1980年 同、卒業。都内の私立男子高校で社会科の非常勤講師として勤務。
しかし授業は成立せず、同僚や優等生たちからは
「授業を聞かない生徒は殴ってでも
静かにさせるのが教師の責任だろう」
と言われ、自信喪失。1年で退職。
もう一度、一から勉強し直そうと大学院入学を志す。
1982年 東京都立大学大学院修士課程入学、
同時に神奈川県内で、私立女子高校で社会科の非常勤講師を始める。
以後、89年退職まで、午前中は高校で授業をして、午後は大学でゼミに
参加するという生活が続く。
1989年 博士課程単位取得退学。同時に高校の非常勤も退職。
東京都立大学の助手を半年務める。
1989年 10月より金沢大学教育学部に着任
1990年 大学院生の守友崇君の修士論文指導をきっかけに、元生徒からの
聞き取り調査に基づく授業分析という研究方法のおもしろさと重要性に
目覚める。
1991年 守友君と共著論文、「安井俊夫に見る主権者を育てる社会科
−−安井教室の元生徒の聞き取りから」が『教育』に掲載される。
(聞き取り調査に基づく実践分析第1弾)
1994年 聞き取りに基づく授業分析第2弾、「判断主体の形成と近現代史教育
−−本多公栄『ぼくらの太平洋戦争』の元生徒の聞き取りから」が、
歴教協編『新しい歴史教育E』(大月書店)に収録され、刊行される。
続いて第3弾、「ものをつくることと社会構造認識
−−久津見宣子教室の
元生徒の聞き取りから」が、
山住正己編『文化と教育をつなぐ』(国土社)に
収録、刊行される。
1996年 上記3論文と、第4弾「産業学習と、親の職業のとらえ直し−−
鈴木正気『久慈の漁業』の元生徒の聞き取りから」を書き下ろし、学会誌
『社会科教育研究』に掲載された「学力から意味へ−−社会科教育実践分析の
課題と方法」とを収録した、はじめての単著『学力から意味へ』を刊行。
同年、金森俊朗の優れた教育実践記録『性の授業 死の授業』を共著で刊行。
1997年 『世界』(岩波書店)に「自由主義史観研究会の教師たち
−−現場教師への
聞き取り調査から」が掲載される。
同年暮れ、上記論文などを収録した2冊目の単著『歴史認識と授業改革』刊行。
1999年 聞き取り調査に基づく実践分析第5弾「国際理解教育における多国籍企業の
教材化−−大津和子『1本のバナナから』の元生徒の聞き取りから」を
学部紀要に掲載。
2000年 第6弾「『ニワトリを殺して食べる』授業の隠れたメッセージ−−鳥山敏子
『いのちに触れる』の元生徒の聞き取りから」を『教育』に掲載。
グループディダクティカ編『学びのためのカリキュラム論』に
「子どもにとって意味のある総合学習とは何か」を執筆
。2001年、鳥山実践分析論文などを収録した3冊目の単著
『いのちを食べる私たち−ニワトリを殺して食べる授業、死からの隔離を解く』
を刊行
『世界』(岩波書店)に「検定こそがねじれの根源」が掲載され、朝日新聞の論壇時評欄で高い評価を受ける
同論文が、英語・フランス語・韓国語に翻訳されて、それぞれの国の雑誌に転載される
『中央公論』(中央公論新社)に「もうひとつの歴史教科書を提案する」が掲載される
2002年、『世界』に「ニワトリを育てて食べる授業の是非を問う」が掲載され、
朝日新聞の論壇時評欄今月の三点に選ばれる
2003年4月、教育学部教授に昇格
2004年、細見博志編『生と死を考える−死生学入門』に
「個性的に生きる」を執筆
同年、坂下ひろこさん、佐藤真樹さんと共著で、
『いのちって何だろう−学校・家庭・戦場で』
を刊行
2005年、4冊目の単著
『脚本家・橋本忍の世界』
を刊行
2007年、5冊目の単著
『勘定奉行 荻原重秀の生涯』 を刊行